アタワルパ
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アタワルパ(英:Atahualpa、ケチュア語:Atawwallpa=幸福な鶏、1502年頃-1533年8月29日、在位:1532年-1533年)は、インカ帝国の実質的に最後(13代)のサパ・インカ(皇帝)である。(名目上最後の皇帝はトゥパク・アマル)父は11代インカ皇帝ワイナ・カパック。マラリアか天然痘であると考えられている伝染病により父帝ワイナ・カパックが亡くなると、異母兄で12代インカ皇帝ワスカルを内戦で破り即位した。
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[編集] 内戦
ワイナ・カパックは自らの母の出身地であるキトを愛し帝国の第2の首都としたため、晩年にはインカ貴族が首都クスコ派とキト派に分かれ対立していた。父帝の死後、本来皇太子であったニナン・クヨチが間もなく父と同じ病気で没すると、帝国はワスカルとアタワルパ、2人の兄弟の間で分割され、ワスカルは首都クスコを含む帝国の大半(コヤ・スウユ、アンティ・スウユ、クンティ・スウユ)を、アタワルパは第2の首都キトを含む北部(チンチャ・スウユ)を得た。2、3年の間、彼らは平穏に分割支配をしたが、ワスカルはワイナ・カパックとその妹にして正妻との間の子であったため、自らが正統なサパ・インカであると考え、アタワルパに忠誠を誓うよう要求し、これをアタワルパが拒否したことから内戦が始まった。
帝国の大半を押さえたワスカルは大軍と共に北に侵攻し、間もなくアタワルパを捕らえた。アタワルパはキトに幽閉されたが少女の助けにより脱走し、チャルクチマ、キスキス両将軍と合流した。彼は兵を集め、チンボラソの戦いでワスカルを破った。次に、ワスカル側についたことを理由にトゥメバンバの町の住民を皆殺しにした。 キペペの戦いを以て内戦は終結し、ワスカルは武装解除されハウハに捕らえられた。アタワルパは皇位請求のためキトを出発し、ワマチューコでインカ皇帝を名乗るとクスコに南下する途中で、8万人に及ぶ兵と共にアンデス山中のカハマルカへ立ち寄った。
[編集] ピサロとの交渉
この頃までに、スペイン人のコンキスタドールであるフランシスコ・ピサロは、1532年7月にペルー最初の植民都市ピウラを建設した。2か月の行軍の後に、ピサロは兵168人と共にカハマルカに到着し、スペインの駐留に関してアタワルパと会談するため、エルナンド・デ・ソト、ビセンテ・デ・バルベルデ神父及び現地人通訳フェリピロをアタワルパの元へ送った。
バルベルデ神父は通訳を通し、皇帝と臣民のキリスト教改宗を要求し、拒否するならば教会とスペインの敵と考えられると伝えた。アタワルパは「誰の属国にもならない」と言うことによって、彼の領土におけるスペインの駐留を拒否した。使節はピサロの元に戻り、ピサロは後に1532年11月16日のカハマルカの戦いと呼ばれるアタワルパ軍に対する奇襲を準備した。
スペインの法に従い、ピサロたちスペイン人はアタワルパが要求を拒否したことで公式にインカの人々に宣戦布告をした。アタワルパがバルベルデ神父に対し、彼らがどんな権威でそのようなことを言うことができるかと冷たく尋ねたとき、神父は聖書を皇帝に勧め、この中の言葉に由来した権威だと答えた。皇帝は聖書を調べ、なぜこれは喋らないと尋ねると、地面に放り投げた。それはスペイン人がインカと戦うための口実となった。神父が神に対する冒涜だと叫ぶ声を合図に、射撃は開始され、2時間にわたり6,000人以上の非武装のインカ兵が殺された。アタワルパは太陽の神殿に投獄された。
[編集] 幽閉から処刑へ
アタワルパは未だスペイン人が彼の帝国の支配を目論んでいることを信じられなかったので、彼らが探している金銀を与えれば自分を釈放し立ち去ると考え、ピサロに金を大部屋1杯、銀を2杯提供することに同意した。ピサロは申し出に唖然とさせられたが、皇帝を釈放する意向は全くなかった。それは、ピサロが周辺諸国において秩序を維持するためには現地住民に対する皇帝の支配力を必要としたためでもあり、更にそれ以上にスペインのカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の支配の元、アタワルパの供述によってピサロ自らが帝国全土の総督として君臨することを意図したためであった。
インカ帝国キト守備隊のルミニャウイ将軍の保有する兵はスペイン兵をはるかに上回る数であったため、その差し迫っている攻撃を恐れ、数カ月後にスペイン人は、アタワルパをあまりにも多い責任があるとし、処刑することを選択した。ピサロは、模擬裁判を行い、皇帝が偶像崇拝を常習としたこと及び実の兄であるワスカルを殺害したことでスペイン人を不快にさせたとして火あぶりによる死刑判決を下した(ワスカルの死についてはアタワルパが関与した証拠はない)。インカの宗教では、焼死した魂は転生できないとされているため、アタワルパはこの判決に恐怖した。ここでバルベルデ神父が、キリスト教への改宗に同意するなら判決文を変更するように働きかけるとアタワルパに言った。皇帝は洗礼を受けることに同意し、洗礼名ホアン・サントス・アタワルパを与えられ、キリスト教徒たる彼の要求に従い、焚刑に代えて絞首刑となった。サパ・インカの位は、彼の死後、傀儡皇帝トゥパック・ワルパに、その後別の弟であるマンコ・インカ・ユパンキに引き継がれたが、実質的な皇帝としては彼が最後のインカ皇帝である。