アフメト3世
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アフメト3世(Ahmed III, 1673年12月30日 - 1736年7月1日)は、オスマン帝国の第23代スルタン(在位: 1703年 - 1730年)。第19代スルタン・メフメト4世の子で、第22代スルタン・ムスタファ2世の弟。
1703年、兄の後を継いで即位する。この頃、ロシア帝国(ロマノフ朝)ではピョートル1世(大帝)のもとで繁栄し、ロシア軍の侵攻をたびたび受けていた。アフメト3世はピョートル1世の侵攻に対抗するため、当時、大北方戦争で同じくピョートル1世と対立していたスウェーデン王・カール12世と同盟を結んでロシア軍を破り、1711年には講和条約を結んでアゾフ周辺を手に入れた。しかしその後、調子に乗って神聖ローマ帝国やヴェネツィア共和国と争って逆に大敗を喫し、1718年には講和条約であるパッサロヴィッツ条約を結んでハンガリー領を譲渡せざるを得なくなった。当時モルダヴィアが帝国から離反を企て、ロシアの侵攻に対し、プルート川で勝利し、ピョートル1世の捕縛まで成功したにも関わらず、それを逃がしてしまった事は、オスマン帝国としては致命的な失敗であった。またカール12世とも確執を強めてしまう。結果、オスマン帝国は、この後、ロシアの強大化に対抗出来なくなってしまう要因を作ってしまう事になるのである。
軍事面ではこのように成功と失敗があったが、内政では大きな成功を収めた。神聖ローマ帝国と敗れて講和した後は西欧諸国との関係修復に当たって平和を作る一方で、名宰相と呼ばれたイブラヒム・パシャの補佐を受けて西欧諸国の文化を積極的に取り入れ、帝国の繁栄を作り出した。しかし、西欧諸国と講和条約を結んで平和を作り出した一方で、東方のイランとの戦いが長期間・泥沼化してしまい、財政の悪化を招いた。しかも、このような中でイェニチェリの反乱が起こって、1730年には甥のマフムト1世に廃されて皇位を奪われた。以後は幽閉生活を送り、1736年に失意のうちに死去。享年64。
彼の時代、西欧諸国からチューリップを大々的に輸入・栽培して大いにチューリップが咲いたため、「チューリップ時代」と称されている。