アレクサンドル・コルチャーク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アレクサンドル・ヴァシリエヴィチ・コルチャーク(アレクサーンドル・ヴァシーリエヴィチ・コルチャーク;ロシア語:Александр Васильевич Колчакアリクサーンドル・ヴァスィーリイェヴィチュ・カルチャーク、1873年11月4日 - 1920年2月7日)は、ロシアの軍人・政治家、白軍(白衛軍)の総司令官。
サンクトペテルブルクの海軍軍人の家に生まれる。海軍兵学校を二番の成績で卒業。日露戦争開戦時には病気を煩っていたが、前線勤務を志願し、駆逐艦セルディティの艦長として旅順防衛に参加。日本海軍の巡洋艦高砂の喪失原因となる機雷を敷設した。旅順開城後捕虜となり、長崎の捕虜収容所に収容されるが、病気のためカナダ経由で本国へ送還された。
戦後壊滅した海軍の再建に尽力。第一次世界大戦が始まるとフィン湾の機雷作戦を指揮して成功を収め名声を得る。1916年海軍中将、黒海艦隊司令長官に任命された。二月革命後、帝政派から臨時革命政府派に乗り換え、訪露中のアメリカ海軍少将、グレーンに取り入り渡米。その帰国途中日本の横浜港に着いた時十月革命の勃発を知り、ニケ月半日本に滞在した。この間日本軍部、英国政府と接触している。
その後イギリスの後援でオムスクに樹立された反ボルシェビキ政府の陸海軍大臣となる。しかし直後クーデターを起こし政権を奪い、ウラル以東のほぼ全域に軍事独裁体制を敷く。ロシア内戦中にはアントーン・デニーキンと同様に白軍として連合国からの援助を受けたが、赤軍に敗れ急速に力を失い、1919年末までにオムスク政権は事実上崩壊。コルチャークはシベリアへ逃亡を図るが追いつかれ、味方であるチェコ軍団に裏切られて赤軍へ引き渡され、イルクーツクの軍事革命委員会により1920年2月7日アンガラ川のほとりで銃殺された。