オサマ・ビンラディン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オサマ・ビンラディン(アラビア語:أسامة بن لادن)ことウサーマ・ビン=ムハンマド・ビン=アワド・ビン=ラーディン(أسامة بن محمد بن عوض بن لادن Usāma bin Muhammad bin ʿAwad bin Lādin)は、9/11テロをはじめとする数々のテロ事件の首謀者とされるサウジアラビア出身のイスラム過激派テロリスト。正確な生年は不明だが、1957年3月10日とする説がある。
目次 |
[編集] 概要
日本語ではオサマ・ビンラディン (NHK、テレビ朝日など)、ウサマ・ビンラディン (日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ東京など)などとも表記される。
なお、「ビンラディン」は厳密には姓ではなく「ラディンの息子」という意味の添え名であるが、オサマの出自であるラディンを祖とする一族の男子は共通してビンラディンを添え名として名乗っているため、便宜的に「家名」として扱われる(人名#イスラム圏の名前を参照)。
ラディン一族はイエメンのハドラマウト地方出身の名家で、サウジアラビアの建設業関係の財閥を形成しており、一族の巨額な財産分与がテロ組織の資金源になっているとされる。一族は、アメリカのブッシュ大統領一家とも金銭的つながりがあり、父のムハンマド・ビンラディンは元アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュとともにカーライル投資グループの大口投資家であり役員だった。また、オサマの兄のサーレムは現アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュがかつて経営していた石油会社の共同経営者である。
オサマはサウジアラビアで生まれ育ち、キング・アブドルアズィーズ大学を卒業後、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻(1979年-1989年)のときアフガニスタンにかけつけ、アフガンゲリラ諸派とともにアフガン義勇兵としてソ連軍と闘った。オサマは個人財産を生かしてアフガン義勇兵のスポンサーとなり、エジプトなどから義勇兵を募集して組織化しアフガニスタンへ送り込んだ。
彼らはアフガニスタンではアメリカ合衆国の後ろ盾を受けていたが、ソ連の敗退後、オサマはアフガニスタンで共に戦ったエジプトのイスラム急進主義派テロ組織ジハード団の指導者アイマン・ザワーヒリーなどの影響を受け、反米活動に転じた。サウジアラビアへ帰国したオサマは湾岸戦争時にサウジアラビア王家が彼の献策を退けてアメリカ合衆国の軍隊を国内に駐留させたことに反発し、急速に反米活動に傾倒していった。このあたりは2001年10月7日に出された彼の声明の中でも「不信人者の軍はモハメッドの地を去れ」という文言で表されている。
アフガン帰還兵への福祉支援組織を隠れ蓑にイスラム主義(原理主義)的な背景を持つ国際テロリズムのネットワークを作り上げたといわれているが、実際にはそうした存在はなく、世界各地で地元民を圧制、搾取する権力者に対抗するバラバラの勢力をひとまとめにして“ネットワークだ”と称しているにすぎないと主張する者もいる。1998年2月にはユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線を結成したとされる。他方FBIによると、彼が関わったとされるテロ事件はタンザニアのダル・エス・サラームおよびケニアのナイロビで1998年8月7日に起きた米大使館爆破事件などとなっている。
ブッシュ政権は、2001年9月11日の事件(アメリカ同時多発テロ事件)に際しオサマ・ビンラディンを首謀者と断定した。しかし、事件の直前にビンラディンがCIAエージェントと接触していたことが報道されており、本当はアメリカの工作員なのではないかと疑う筋もある。9/11事件直後は犯行を否定する発言を行っていた。また、この事件のあとイギリスなど一部のメディアは「『テロリスト』とは、相対する者から見たら『自由の戦士』に変貌するので、今後その言葉は使わない」と宣言した。
2004年以降から、腎臓病に苦しみ常に人工透析の電子機器が必要であると報道されている。最近になって、死亡説が浮上した。これは、フランスの地方紙などが伝えたもので、それによると、腸チフスで死亡したとの事である。しかし、フランスのシラク大統領が、『死亡したとの情報はない』などとし、死亡説を否定した。今も尚、死亡説の正否は不明である。
[編集] 活動の年譜
- 1994年、サウジアラビア国籍剥奪。国外追放され、一時スーダンに身を寄せる。
- 1996年、アフガニスタンに逃げて、イスラム原理主義勢力ターリバーンに客人として扱われる。豊富な資金力でアルカーイダの基地を作り、テロ訓練を行ったとみられる。
- 2001年秋、ブッシュ政権にアメリカ同時多発テロ事件の首謀者と断定され、ターリバーンに身柄の引渡し要求がつきつけられたが、ターリバーンはこれを拒否した。ターリバーンにとってはビンラディンは客人であり、彼が真犯人であるというなんらかの証拠提示もないまま米政権がつきつけた要求に応えることは、非常に困難だった。
- ターリバーン政権崩壊後は消息不明だが、アフガニスタンとパキスタンの国境山岳地帯に潜伏していると推定されており、パキスタン軍の掃討作戦に包囲されているとの情報も流れた。
- 2004年2月28日、イラン国営放送のパシュトゥーン人向けラジオ放送が、パキスタン国境付近でパキスタン軍が"だいぶ前に"ビンラディンを拘束したとのニュースを伝えたが、AP/ロイターによると、パキスタン外相、アメリカ国防総省はこの情報を否定した。
- 2004年10月29日、カタールの衛星テレビ局アルジャジーラが、その頃撮影されたといわれるビンラディンの映像を放映。この中で、ビンラディンと思しき男はアメリカ同時多発テロ事件を行ったことを初めて認め、更なるテロを警告した。これに対し、ブッシュ大統領は「脅しに屈しない」と強調した。しかし、このビデオの信憑性を疑う者も多くいる。
- 2005年10月に発生したパキスタン地震によりアメリカ諜報部が彼の消息が絶ったとし、更には人工透析の電子機器が常に必要でありながらも地震により電力が止まっているなどの情報もある為にドイツの新聞がビンラディン死亡説を報道した。
[編集] オサマ・ビンラディンとアルカイーダ
- アメリカ政府はかねてからのFBIの情報収集活動などにより、早くからイスラム系国際テロ組織アルカーイダとそのリーダーであるビンラディンが911テロ実行犯と断定していたが、ビンラディンは当初事件への関与を否定していた。ところが2001年11月、アフガニスタンのジャララバットでタリバン掃討作戦を行っていたアメリカ兵が破壊された民家から一本のビデオテープを発見、その中でビンラディンが同志にこの事件については事前に知っていたと語るシーンがあったことから大騒ぎになった。ビンラディン本人がビデオテープによりアルカーイダによる911テロの犯行声明を公に発表したのは、それから3年後の2004年11月のことである。
[編集] 疑問
- イギリスのBBC放送のドキュメンタリーは、「オサマ・ビンラディンはアルカイーダのリーダーだ」といわれているが、「『アルカイーダ』は元々アフガニスタンからソビエト軍を追い出すためにアメリカの情報機関であるCIAが育てたグループであり、『アルカイーダ』という名称自体、ビンラディンを逮捕したいFBIがでっち上げた名称だ」とした。(『“テロとの戦い”の真相(The Power of Nightmares)』、NHKの「BS世界のドキュメンタリー」でも放映された)
- ビンラディンの部下だと名乗る男の映像が2005年下旬に見つかっている。撮影場所ははっきりしていない。映像にでてきた男はイスラム教徒に「我々の石油がうばわれている。石油に関連する施設を攻撃せよ」などと述べている。
- 1990年代はじめにビンラディンのテープを翻訳した経験のあるMUJCA-Netの主催者ケヴィン・バレット博士の見解では、2001年以降に発表された多くの「ビンラディンだ」といわれるテープは偽物であり、CIAが「本物だ」と断定した2002年秋に発表されたテープも、スイスにあるIDIAPという研究所が声の分析をした結果は「替え玉による録音だった」という。
- こうしたテープは、ブッシュ政権が色々な批判を浴びている状況下で報道に出てくることが多く、ブッシュ政権政権に都合の悪いことを隠すための煙幕だと解釈する人もいる。テープ自体は頻繁に出されている。
[編集] エピソード
- アメリカのタイメックス社の時計の愛用者である。奇しくもクリントン大統領も同社の時計を愛用していた。
- 2001年のアメリカの「タイム」誌の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」のインターネット投票で、日本のタレントの田代まさしに敗北した。