カーブル
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カーブル(Kabul)は、アフガニスタンの首都。日本の主だった報道機関各社は「カブール」という呼称を用いているが、学術的にも一般的にも「カーブル」が妥当である。現地語での発音も「カーブル」に近い。
ヒンドゥークシュ山脈の南麓、カイバル峠(ハイバル峠とも)のふもとのカブール川沿いの狭小な丘陵に位置する標高約1,800mの町。商業が非常に活発であるほか、皮革・家具・ガラス工業なども行われる。アフガニスタンの経済的・文化的中心地であり、人口は260万人(2002年推計)を超える。1931年に開学された国内最高学府である国立カブール大学はこの都市にある。カブール州の州都でもある。
古くから"文明の十字路"と呼ばれた。住民はタジク人が多数派だが、その他のアフガニスタン国内の各民族が住む。
[編集] 歴史
アレクサンドロス大王の東方遠征以来、たびたび中央アジア・ペルシアの勢力のインドへの侵入路となった。7世紀にアラブ人によって征服され、イスラム世界の一部となる。ムガル帝国の創始者バーブルは、シャイバーニー朝にサマルカンドを追われてこの都市を首都に定め、インドを征服した。
ムガル帝国とサファヴィー朝との争奪を経て1738年にアフシャール朝のナーディル・シャーによって征服され、その死後、パシュトゥーン人(アフガン人)がアフガニスタンの起源となるドゥッラーニー朝を興すとその首都となった。1839年と1879年に、二度のアフガン戦争で二度とも一時イギリス軍の占領下に置かれる。
1979年、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻が始まると、12月23日にソ連軍によって占領され、1988年に撤退するまでその司令部が置かれてムジャーヒディーンのゲリラとの激しい攻防の中心となった。1992年、カーブルはムジャーヒディーンの手に落ちるが、ムジャーヒディーン各派同士の内紛を起こし、1996年にターリバーンにカーブルを奪われた。
2001年にアメリカ同時多発テロ事件後のオサマ・ビンラディンの引渡し問題でターリバーンがアメリカ合衆国と敵対すると、その激しい空爆を受けた。ターリバーンは同年11月21日にカブールを放棄し、北部同盟が代わってカーブルを占領し、ハーミド・カルザイ暫定政権の首都となった。
[編集] 名称について
日本では多くのマスメディアが第二音節のuを長母音とした「カブール」の名称で呼んでいるが、ダリー語のアラビア文字(ペルシア文字)表記(کابل (kābul))では第一音節のaが長母音で、発音は「カーブル」あるいは「カーボル」に近い。もともと日本語では「カーブル」と表記していたが、いつのまにか「カブール」と呼ばれることが多くなってしまっている。しかし学術的には「カーブル」と書かれることが一般で、高等学校の世界史教科書などでも「カーブル」が使用されている。
[編集] 施設
カテゴリ: アフガニスタンの都市 | アジアの首都