ギリシャ正教会
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ギリシャ正教会(―せいきょうかい)は、以下の三通りの意義に使われる。
- 東方正教会の別称。
- スラヴ人の「ロシア正教」の対義としての、コンスタンティノポリ総主教庁などかつての五大総主教座を中心とするギリシャ人の正教会。
- 1833年に東方正教会のコンスタンティノポリ総主教庁から独立したギリシャ王国(当時)の独立教会。
日本語としていずれも定着しているため、いずれかが誤りというわけではないが、前二者はギリシャ一国に限ったものではないため、厳密にはギリシャを冠する必要はない。したがって、本項では最後の定義によるギリシャ正教会について詳述する。 なお、東方正教会の別称としては、「ギリシャ正教会」ではなく「ギリシャ正教」を用いるのが日本では比較的一般的である。
ギリシャ正教会は、自主管理による東方正教会の独立教会のひとつ。アテネに大主教座を置き、主としてギリシャ共和国の信徒を管轄する。ただし、ギリシャ共和国領とは完全に一致せず、クレタ島はコンスタンティノポリス総主教庁の管轄下にある。ギリシア国外ではヨーロッパ、アメリカ合衆国などに移民を中心にして成立した教会をもつ。
ギリシャの正教会はローマ帝国時代以来の由緒をもつが、ギリシャ人の居住していたペロポネソス半島からアナトリア半島にかけての地域を管轄する教会は、東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)に座すコンスタンティノポリ総主教のもとにあり、現在のギリシャの領土内ではなかった。1453年にコンスタンティノポリスはイスラム教徒のオスマン帝国の支配下に入り、前後してギリシャ人を含む正教徒の居住地域の多くがオスマン帝国領になったため、オスマン帝国はコンスタンティノポリ総主教を保護して国内の正教徒を統制する政策をとった。
しかし、19世紀初頭にギリシャ人の民族意識が高まると、1821年にオスマン帝国の意を受けたコンスタンティノポリ総主教の慰撫を振り切る形で現在のギリシャの地で民族蜂起が起こり、ギリシャは王国として1830年にオスマン帝国から独立を果たした。これにともない、新生ギリシャ王国内の正教会は、アテネ大主教を首座として、旧宗主国オスマン帝国の影響下にあるコンスタンティノポリ総主教からの教会独立を宣言、1850年に至って総主教の側から承認を受け、相互に独立を承認した教会の関係になった。
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