コンスタンティノス2世 (ギリシャ王)
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コンスタンティノス2世(Κωνσταντίνος Β΄、1940年6月2日 - )は、ギリシャ王国最後の国王(在位: 1964年3月6日 - 1974年12月8日)。
パウロス1世とハノーファー旧王家出身のフレデリカ王妃の第2子として生まれた。姉は現スペイン国王フアン・カルロス1世の王妃ソフィア。1960年、20歳のときにローマオリンピックに出場し、セーリングのGold Dragon Classで金メダルを獲得した。
1964年、父パウロス1世の死去により即位した。同年、デンマーク王女で現女王マルグレーテ2世の妹であるアンナ・マリーと結婚した。姉妹とコンスタンティノス2世は、ともにデンマーク王クリスチャン9世の玄孫に当たる。
国王としては首相のパパンドレウと緊張関係にあり、軍の指揮権を巡り争った。 パパンドレウは1965年に辞任し、政局が不安定化したため、1966年4月21日に軍事クーデターが生じた。12月にコンスタンティノスは家族を連れてローマに脱出した。その後も国王不在のまま、形だけの王制が続いていたが、1973年に軍事政権は王制を廃止し、共和制を宣言した。1974年にはカラマンリス率いる民主化政権のもとで2度目の国民投票が行われ、大差をつけて正式に王制の廃止が決定した。
ギリシャの民衆と政治家の中には、軍事クーデター前後における政治の混乱を、コンスタンティノス2世が原因だとする意見が強い。パウロス1世とギリシャ共和国双方で首相を務め、後には大統領も務めたカラマンリスは、コンスタンティノス2世をパウロス国王のわんぱく坊主だと軽蔑していた。他の政治家の中には単に馬鹿者と呼ぶ者もいる。国民投票の動向が決定した1974年12月8日のラジオ演説でカラマンリスは、「今日、国家のガンが国民全体により否定された」と述べた。これは当時の世論を如実に物語っている。
長年にわたりコンスタンティノス2世は王室財産に対する権利を主張していたが、ペルソナ・ノン・グラータとして入国を拒否されていた。ギリシャ政府を国際司法裁判所に提訴するために、名字を名乗る必要に迫られた際、彼はイタリア語で「ギリシャの」を意味するde Grecia(デ・グレチャ)に決めた。