ゴットホルト・エフライム・レッシング
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ゴットホルト・エフライム・レッシング(Gotthold Ephraim Lessing, 1729年1月22日 - 1781年 1月15日) は、ドイツの詩人、劇作家、思想家、批評家。ドイツ啓蒙思想の代表的な人物であり、フランス古典主義からの解放を目指し、ドイツ文学のその後のあり方を決めた人物である。その活動は、ゲーテやシラー、カント、ヤコービ、ハーマン、ヘルダー、メンデルスゾーンなど当時のドイツ文学・思想に多大な影響を及ぼした。また彼の死後、文学・哲学界でいわゆる「スピノザ論争」がおきた。
[編集] 生涯
ザクセン州の小さな町の聖職者の息子として生まれる。ライプツィヒ大学で、医学と神学を学び、その後に著作・創作活動とともにさまざまな職を歴任。まずはベルリンとライプチヒとで、1748-1760年までには著述家、編集者として働く。若干18歳にして処女作「若い学者」を上演。1760-1765年にはタウエンツィーエン将軍の秘書として働き、後にドイツ国民劇場で脚本家、指導者として働く。
1766年の著書『ラオコオン』でギリシア美術を論じ、後の美術思想に大きな影響を及ぼす「ラオコオン論争」を起こした。晩年には図書館の司書も勤めた。この図書館司書在任中、知人の牧師ゲーツェ(Johann Melchior Goeze。尚、混同しやすいがドイツ屈指の文豪ヨハン・ヴォルフガンク・フォン・ゲーテとはまったくの別人であるので注意されたい)とドイツ文学史上屈指の激しい宗教論争を巻き起こし、代表作でもある「賢者ナータン」の上演のきっかけをつくる。また、生涯を通じて各地へ旅行をし、様々な見聞し、劇作・詩の下地を得る。
1781年に客死。ドイツにおいて、劇作を専門職とした最初の人物でもあった。
[編集] 作品 (劇作・著作)
- 「若い学者」(Der junge Gelehre)(1747)(独善的な死んだ学問に固執している学者を描く喜劇。レッシングの啓蒙思想のはしりとも解せる。)
- 「ユダヤ人」(Die Juden)(1749)
- 「フライガイスト」(Der Freigeist)(1749)
- 「フィロータス」(Philotas)(1759)
- 「ミス=サラ=サンプソン」(Miß Sara Sampson」(1755)
- 「寓話集」(Fabeln)(1759}
- 「ラオコオン」(Laokoon)(1766)
- 「ミンナ・フォン・バルンヘルム」(Minna von Barnhelm)(1767)
- 「ハンブルク演劇論」(Hamburgische Dramaturgie)(1767-1769)著作。
- 「エミリア・ガロッティ」(Emilia Galotti)(1772)
- 「反ゲーツェ」(Anti-Goeze)(1778)(繰り返すが、ゲーツェは文豪ゲーテではない)
- 「賢者ナータン」(Nathan der Weise) (1779)
- 「エルンストとファルク」(Ernst und Falk)(1778)著作。
- 「人類の教育」(Die Erziehung des Menschengeschlechts)(1780)著作。