シトロエン・DS
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シトロエン・DS(Citroën DS)は、フランスの自動車メーカーであるシトロエン社が1955年に発表した前輪駆動の大型乗用車である。
宇宙船にも例えられた流線型の未来的スタイリングに、エア・サスペンション(および変速機等の多くの附属機器類)を油圧遠隔制御する「ハイドロニューマチック・システム」を搭載した、野心的設計の自動車である。極めて優れた居住性と高度な走行性能を同時に実現し、あらゆる面で同時代の他の自動車から隔絶した存在であった。
あまりに常軌を逸したアバンギャルドぶりから、登場時には「10年後の車」「20年進んだ車」と言われたが、実際1955年から1975年までの約20年間、フランス車の最高級レンジを担うモデルとして第一線に在り続け、アップデートを繰り返しながら(派生形の「ID」等も含めた)合計で、約145万5,000台が製造された。
本項ではDSのほか、派生形である「ID」についても記述する。
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[編集] 沿革
出現以来、その度外れて大胆なボディ・スタイリングに起因する強烈な存在感と、自動車設計の理想を徹底追求した結果の極めて異例な複雑機構によって、機械工学や工業デザインの面はおろか、社会文化面からも興味深い研究対象とされてきた。哲学者ロラン・バルトが、発表されて間もないDSについて一編の批評を残したことはよく知られる逸話である。
車名「DS」は、フランス本国では「デ・エス」と発音される。その正確な語源は「開発コードの省略形」とも「Désirée Spéciale(特別な憧れ)」の略とも言われるが詳細は不明である。しかしそれらに、「女神」を意味するフランス語である「déesse」の短縮形をダブルミーニングしているという説は根強い。その名に相応しく、発表後50年、製造終了後30年以上を経て、なお世界各国に熱狂的な崇拝者・愛好者が多数存在する、伝説化したカルトカーである。
1999年には、全世界の自動車評論家・雑誌編集者等によって選出された「カー・オブ・ザ・センチュリー」の自動車100選において、1位のフォード・モデルT、2位のBMCミニに次ぐ、史上第3位の偉大な自動車という評価を受けている。多くの名高いスポーツカーや高級車を下してこれほどの高評価を与えられたことは、自動車史上におけるDSの存在意義を如実に物語っていると言えよう。
[編集] 歴史
[編集] トラクシオン・アバン
シトロエン社は1934年に開発された7CV「トラクシオン・アバン」で、初めて前輪駆動方式を採用した。量産モデルへの前輪駆動導入は世界的にも早い時期の試みであり、以後のシトロエン社は、乗用車はもとより、商用車についても前輪駆動方式を積極的に導入していくことになる。
当時としてはウルトラモダーンな設計の「トラクシオン・アバン」シリーズは、当初の4気筒1303cc形「7CV」に続き、1934年中に4気筒1911ccの「11CV」、更に1938年には6気筒2867ccの「15CV-six」が追加され、第二次世界大戦中の製造休止はあったものの、15CVは1955年、11CVは実に1957年まで生産されるロングセラーとなった。これを手がけた主任設計者は、ヴォワザン社出身の元航空技術者アンドレ・ルフェーヴル(Andre Lefebvre 1894年-1964年)で、前輪駆動のほか、モノコック構造やトーションバーによる独立懸架機構などの先進的なメカニズムを多数導入したことは大きな業績である。
ルフェーヴル技師は、早くも1938年、当時のシトロエン社社長ピエール・ブーランジェの命令によって、「トラクシオン・アバン」の後継車となる中~上級クラスの乗用車開発を開始した。このニューモデルは「VGD」なるコードネームを与えられた。「Vehicle e Grande Diffusion」(大量普及自動車)の意で、トラクシオン・アバン同様に量産型乗用車として生産する意図ははっきりしていた。
[編集] VGDの開発
ルフェーヴルが打ち出した「VGD」コンセプトの趣旨は、おおむね次のようなものであった。
- 安全性の追求
- 居住性(乗員を路面の影響から隔てる)
- 路面状況を問わないロード・ホールディングの能力確保
- 空力面の追求
まもなく第二次世界大戦が勃発したため、開発はいったん中止された。本格的な開発作業は第二次世界大戦後に持ち越されることになる。
終戦後から本格的な開発が再開された。開発過程では、計画を推進してきたピエール・ブーランジェ社長が1950年に事故死するアクシデントがあったものの、後継社長のロベール・ピュイズーは引き続きVGD計画の推進を支援し、ルフェーヴルら技術陣は開発を続行した。
この時点でルフェーヴルはさらに以下のような設計方針を提示していた。
- 軽量・低重心かつモダンで個性的な空力ボディを用いる
- 前後輪重量配分を2:1とする
- トレッドは前輪を広く、後輪を狭くする(ルフェーヴルがシトロエン以前に在籍したヴォアザン社のグランプリカーに倣った手法である)
- サスペンションに革新的なシステムを導入する
しかし、シトロエンの戦後型主力車の開発は遅れた。その間にも、プジョー203(1948)、フォード(フォード・フランス)・ヴァデット(1949)、ルノー・フレガート(1950)、シムカ・アロンド(1951)と、競合メーカーから1.2リッター~2.3リッター級の戦後型中~上級車が続々登場していた。それらフラッシュサイド・ボディ(車幅を広く取り、側面をフラットにして車内容積を広げたデザイン)の新車群に与して、独立フェンダーと外付けヘッドライトのオールドファッションなトラクシオン・アバンは、1950年代に入っても延々と生産され続けていた。
戦後型の大型シトロエンであるVGDが「DS」として発表されたのは1955年で、フランスの自動車メーカーでは戦後最後発の上級車であった。結果としてシトロエンはこの「DS」で、競合各社を突き放すことになった。
[編集] デビュー後
1955年10月5日、フランス最大のモーター・ショーであるパリ・サロンで発表されたDSは、文字通り「異次元の自動車」として観衆の異常な関心を集めた。公開直後わずか15分の間に743名が購入を希望し、その日一日で無慮1万2,000件のバックオーダーが押し寄せたのである。世界的にも注目されたこのモデルの成功はスタート時点から半ば約束されたようなものであった。
1957年のトラクシオン・アバン生産終了に伴い、その代替としてDSの仕様を簡素化した廉価型「ID19」が登場した。「ID」は「イデ」と発音し、フランス語で同発音の「Idée」(イデアの意)とかけたネーミングである。基本的にはDSのエンジンをデチューンし、サスペンションシステム以外を一般的な手動変速機、通常型ブレーキ、パワーステアリング省略仕様としたものである。この結果DS/IDシリーズはシトロエンの中~上級レンジを一手に担うモデルとなる。1958年にはワゴンタイプの「ブレーク」ほかも発売された。
最大のライバルであるプジョーの上級車種展開が進まなかった(1960年代前半まで1600cc級が上限で、2リッター級投入は1968年の「504」まで遅れた)事情もあって、DS/IDシリーズは競合モデルのルノー・フレガート、シムカ・アリアーヌ8を斥けてフランスの上級車市場をリードした。ド・ゴール大統領以下政府首脳の公用車にも広く用いられた。
生産はフランス本国の他、ベルギー工場、およびイギリスのスラウ工場でも行われた。スラウ製DSシリーズはイギリス向けで右ハンドル仕様なのが特徴である。
1960年には従来の6V電装から12V電装へ強化された。1962年9月にはマイナーチェンジが行われ、ノーズ部分の形状を若干変更し、ベンチレーションを改良した。1964年には、内外装をグレードアップしたデラックスモデル「DS19パラス」が発売される。
1967年には、DSシリーズの最も大きなマイナーチェンジが行われた。最大の変化は、それまで埋め込み式の2灯(パラス仕様は外付け式の補助灯2灯が追加)であった前照灯を、ガラスカバー付きの4灯式デュアルライトとしたことである。このデザインは、シトロエン傘下のメーカーであるパナール・ルヴァッソールが1963年に発売した850ccクーペ「パナール24c」に先行して用いられたモチーフであった。この「猫眼」型のライトのうち、内側2灯はステアリングに連動して機械的に首を振り、進行方向を照らした(首振りライトはタトラT77aやタッカーでの先行例があるが、DSでの採用は特に有名になった)。
1970年にはマセラティ製の強力なV形6気筒エンジンを搭載した高性能クーペ「SM」がシトロエンの最高級車として開発されたものの、シトロエンの上級主力モデルはなおもDSであった。
アップデートを繰り返して長期生産されたDSであったが、基本設計自体が古く、スペース効率や生産性の制約が多かったこともあって、1970年代に入ると市場競争力の面で不利になってきた。1974年に、よりモダンで穏健な設計の後継モデル「CX」が発売されたため、DSは1975年に主力生産を終了、そして翌1976年に救急車などの特装形も生産中止されて、現役を退いた。
1973年に経営危機に陥ったシトロエン社は以後、生産モデルの設計の穏健化と、グループ企業となったプジョーとの部品共通化を進め、もはやDSほどエキセントリックでアバンギャルドな自動車を開発する事はなくなった。
[編集] 構造
イギリスの作家ギャビン・ライアルが著した冒険小説『深夜プラス1』(1965)には、主人公たちのフランス横断隠密行の足として1961年型シトロエンDS19が登場する。この小説の主人公「カントン」ことルイス・ケインによる「非常に優秀だがたいへん変わった車――全てが油圧作動――この車には人体より多くの管がある――出血したら、おしまい」(大意)というコメントが、DSの性格を簡潔に要約している――実際にこの小説の中盤で、敵の襲撃を受けたケインたちのDSは、オイル漏れにより走行不能となってしまうのである。
全長4.81m、全幅1.8m、全高1.47mという、1950年代中期のヨーロッパ車としては異例の大型ボディである。そのエンジンは初期形で1.9リッター、最終形でも2.3リッターに過ぎないが、車重は1.2t~1.3tと意外な軽量に押さえられているため、動力性能に大きな不足はない。そして、随所に意表を突くメカニズムが満載されている。
[編集] ハイドロニューマチック・システム
シトロエンDSの最大の特徴は、油圧動力による一種のエア・サスペンション機構を中心とした「ハイドロニューマチック・システム」hydropneumatic system の採用である。
コンピューターを一切用いず(そもそもこの種の用途に使える小型コンピューターなど無かった時代である)、油圧バルブと機械的ポンプ機構の組み合わせのみによって、高圧オイルラインを介し懸架機構を自動コントロールするこのメカニズムは、乗用車用のエア・サスペンションとしては世界でも極めて早い実用例であり、非常に野心的なシステムであった。ロールス・ロイスやダイムラー・ベンツもその価値を認め、のちにライセンスを取得して導入したほどである。
気体では、体積と圧力が反比例するボイルの法則が成り立つ。体積が半分に圧縮されれば、圧力は2倍となり、体積が更に圧縮されれば、それに応じて反発する圧力も高まることになる。この特性をばねとして利用したのがエア・サスペンションである。
気体体積を0にすることはできないから、金属ばねと異なり、バネが縮みきってしまう「ボトミング」の状態は起こらない。また微細な振動の吸収力に優れ、更に適宜圧力を高めることでスプリングレートの調整も可能であるなど、複雑な機構ながらそのメリットは多い。
エア・サスペンションはバスや鉄道車両では第二次世界大戦後に実用化されつつあったが、これらは元々空気圧でブレーキを作動させる都合上、圧縮空気を供給するエア・コンプレッサーを車載していたことを利用したもので、エア・サスペンションも完全に空気圧のみで作動した。スプリングとなるゴム嚢から圧縮空気が抜ければ、自動的にバルブが開いて新たに圧縮空気が供給される構造である。
これに対し、シトロエンのハイドロニューマチックは、エア・サスペンションの気体に一定量を密封した窒素ガスを用い、加圧や車高調整についてはエンジン動力作動のオイルポンプによる油圧を利用した。スプリングユニットは、エア・サスペンションとオイル・ダンパーの2役を兼ねたような構造である。液体(hydro)と気体(pneu)を併用する構造が、その名前の由縁である。
[編集] 開発過程
ハイドロニューマチックシステムを開発したのは、1925年以来シトロエンに在籍していた油圧技術の専門家であるポール・マージュであった。このメカニズムの基本的着想には、航空機の操舵機構・懸架機構に関わる油圧制御システムが背景として存在した。開発過程では、油圧回路に要求された0.5µm単位の加工精度を実現することに非常な困難が伴った。
1954年、トラクシオン・アバン「15CV-six」のワゴンモデルである「ファミリアール」のリアサスペンションに、最初のハイドロニューマチックが採用された。ファミリアールは3列座席の大型モデルで積空差が大きく、ハイドロニューマチックの採用は、従前のトーションバー・スプリングに比して車体姿勢の安定に寄与した。
そしてDSでは4輪のサスペンションの他、パワー・ステアリング、トランスミッション、ブレーキにまでそのオイルラインが活用されたが、これらは高度な乗り心地や操縦性を提供した一方で、その初期にはしばしば作動トラブルを起こし、ユーザーとメーカーの双方を悩ませた。
シトロエンではその後も一貫して中級以上のモデルにハイドロニューマチックを採用し続け、自社のアイデンティティとした。GS(1970年)、SM(1970年)、CX(1974年)、BX(1981年)等が該当する。近年のXM(1989年)、エグザンティア(1991年)、C6(2005年)などでは、油圧系統を電子制御することで操縦安定性を高める「ハイドラクティブ」シリーズへと進化しつつある。
[編集] 基本構成
ハイドロニューマチックのサスペンションユニットは、油圧ショックアブソーバーに類似したシリンダー様で、下部はサスペンションアーム(ウィッシュボーンやトレーリングアーム)と結合されている。頂部には「スフェア」(球体)と称される金属球が取り付けられている。スフェアの内部はゴム膜で仕切られており、頂部側が窒素ガスを充填したガス室、下部側が高圧オイルを満たしたオイル室である。
走行中、サスペンションに突き上げの衝撃がかかると、オイルを介してスフェア内の窒素ガスが圧縮され、スプリングとして働く。また、乗客が新たに乗り込んだり、荷物を積んだりすることで荷重が増えると、ガス室体積が圧縮で減少するので、その分を補う体積のオイルをユニット内に送り込むことで車高とスプリングレートを維持できる。さらに、スフェアとシリンダー部との間には、一般的なショック・アブソーバーにおける小穴(オリフィス)と同様に抵抗部となるチェックバルブがあり、ここでショック・アブソーバー同様な減衰効果を得ることもできる。
オイルタンクはボンネット内にあるが、このタンク自体は常圧である。ここからポンプで吸い上げられて加圧されたオイルは、「メイン・アキュムレーター」と呼ばれる蓄圧器に送られる。メイン・アキュムレーターの構造はサスペンションのスフェアに類似しており、一体化されているレギュレータにより170bar~140barの間の油圧に保たれる。この油圧のレベルが非常に高いものであることは、タイヤの圧が2bar程度であることからも理解できよう。高圧を採用した背景には、高圧であるほど油圧作動装置が小型化できるという理由があった。170barに達するとレギュレータにより高圧ポンプからの送油はカットされ、蓄油タンクに接続されるので、この間を循環しているだけの状態となり、140bar以下になると再度ポンプは加圧を始める。
このようなシステムであるため、高圧油圧配管の接続でオイル漏れを生じさせないことが肝要であるが、1台のDSには100ヶ所では済まないほどの油圧接続部があり、実現には非常な困難があった。従って、実際にもオイル漏れの皆無なDSは稀な程である。
メイン・アキュムレーターから4輪それぞれのサスペンションにオイルが供給される。オイルラインは前輪用と後輪用があり、それぞれに車高調整を司る装置「ハイトコレクター」が設置されている。ポンプからハイトコレクターに至る間のオイルラインは、往路となる加圧配管と、復路となるリターン配管に分かれている。DSのスタビライザーは一般的なトーションバー方式を用いているが、このスタビライザーにハイトコレクターを連動させ、前輪分・後輪分それぞれに加圧・リターン配管を開閉させるのである。ハイトコレクターから先のサスペンション側オイルラインは左右輪とも一本化され、オイルの往復・左右移動いずれをも可能としている。
荷重がかかればサスペンションがストロークすることでスタビライザーが動き、ハイトコレクターにてポンプからの加圧配管が開かれ、左右両輪スフェアとシリンダー内にオイルを供給して車高を維持する(基準まで供給されればスタビライザーが定位置に戻るので、オイル供給がそこで止まる)。逆に荷重が小さくなれば、スタビライザーが逆に動くことでハイトコレクターではリターン配管が開き、荷重が抜けただけオイルを抜いて、高くなった車高を低くする。この「自動車高調整機能」は、あくまで荷重の増減に対して若干テンポを遅らせてゆっくりと作動するので、メカニズムや乗員に大きな負担を掛けない。瞬間的なピッチングには特に反応しない(開発当時の技術ではピッチング即応は困難であったし、敢えて反応させるメリットもなかった。状況変化に対し、瞬時に反応して急作動するようではかえって危険である)。
この結果、ハイドロニューマチック装備のシトロエンは、乗客・荷物が満載の状態であっても、車高や車体姿勢は空車状態とほとんど変わらない状態に維持されるのである。
前輪分・後輪分の油圧系統は、それぞれ左右輪がセットで繋がっている。このような構造のため、電子制御化以前のハイドロニューマチックサスペンションにアンチロール性はなく、その機能は金属製スタビライザーで補っている。
シトロエン社も、アンチロール性確保には苦慮して対策を施した。フロントをワイドトレッド化して安定性を高めると共に、ハイドロニューマチック自体にも、左右フロントサスペンション・シリンダー間を連結する油圧配管内にワイヤーを入れ、オイルの流動抵抗(インピーダンス)を高めたのである。
[編集] 運用法
ハイドロニューマチックシステムの全ては、エンジン動力による高圧オイルで作動する。従って、エンジン停止後数十分~数時間でオイル圧力が抜け、ハイドロニューマチック・サスペンションは縮んで、車高が低くなる。エンジンを始動すれば数十秒で通常走行用の車高まで持ち上がる。十分に車高の上がっていない状態で走行することは推奨されていない。
DS/IDでは、自動車高調整機能に加え、運転席足元にある車高調整レバーを用いて車高を5段階に調整できる。もっとも、最高段と最低段は走行用のレンジではない(走行は推奨されない)。パンク時のタイヤ交換の際、最高段で車体を高く持ち上げ、ここで地面と車体との間につっかい棒を差し入れてから、最低段に切り替えてタイヤを地面から離してしまうことができる(つまり、通常人力で動かすジャッキが、ハイドロニューマチック車には不要なのである)。この応用で、路面から1輪が脱輪しても、自力で脱出可能である。その他の段では、車高を適宜調整することで悪路の通過や高速走行時の車高低下を図ることができる。
ハイドロニューマチック用フルードは、1955年の発売時から1964年まで植物性オイルの「LHS」が用いられたが、1964年モデルからは部分合成の植物性オイル「LHS2」が採用された。これらの赤いフルードは植物油ベースであることに起因する吸湿性があり、作動油としての安定性には難点もあったことから、1966年以降のモデルからは緑色の鉱物性オイル「LHM」が標準となった。
これらは混用不能であり、互換性もない。各年式毎の指定と異なる仕様外オイルを用いると、オイルラインのシーリング・ゴムを冒す危険があり、オイル漏れや配管詰まりの原因となる。その修復は非常な困難を伴い、悪くすればもはや修理不能となって、配管と不可分な車全体を放擲せざるを得なくなる(緊急時の補充用として新品の低粘度のエンジンオイルを利用する事は可能であるが、その場合でもLHM仕様車については、極力速やかなLHMへの全交換を要する)。
ハイドロニューマチック用の各種フルードは、現在でもフランスの大手オイルメーカーであるトタル(Total)ほかによって生産されており、フランス本国では容易に入手可能である。
[編集] ボディ
ボディ部分は応力を負担せず、最低限の強度骨格のみを構築して、その外側にパネルを装着する「スケルトン構造」としている。このあたりの手法は、当時まだ梯子形フレームを用い、ボディを別構造としていたアメリカ車などに似ているが、軽量化と剛性確保には十分な意が払われている。
屋根部分は強度部材である必要がないため、低重心化を狙って、当時最新の素材であったFRP(強化プラスチック)を用いた(DSのすぐ後に出現したスバル360も同様な手法を用いた史実は興味深い)。初期には色が薄く、日光を一部透過するほどであった。後には徐々に不透過性に改められている。
[編集] スタイリング
ボディデザインを手がけたのは、シトロエン社の社内デザイナーで、トラクシオン・アバンや2CVのデザインも行ったイタリア人のフラミニオ・ベルトーニである。DSのデザインは、多くの人々からベルトーニの最高傑作と目されている。
ベルトーニは、トラクシオン・アバンのスタイリングを更に徹底して流線型化することでDSのデザインを作り上げたとされるが、結果的には他のあらゆる自動車と隔絶し、「宇宙船」とまで評される(およそこの世のものとも思われない)ドリーム・デザインを実現した。それは1955年時点におけるもっとも進歩した空力デザインの一つである。
ボディは幅広なシャーシに合わせて下を広く、上を狭く取って安定感を持たせた。これは同時に空気抵抗軽減にも寄与している。
先端は低く尖ったグリルレス・スタイルで、半埋め込みのヘッドライト共々空気抵抗を抑制している(これを「牡蠣のような」と表現した小説もあった)。スポーツカーでもこれほど思い切ったデザインは1960年代以降でないと一般化せず、(権威を伴った装飾としての)ラジエーター・グリルがないその外観は、1950年代の人々にとっては驚嘆の対象であった。1953年のスチュードベイカー・スターライナー・クーペ(レーモンド・ローウィ事務所のデザイン)の影響を指摘する者もあるが、実際にはそれより遙かに未来的である。
ルーフおよびトランクは後方に行くに連れて徐々に低く垂下し、テールは細く窄まって、テールライトがコンパクトに収められていた。ウインドシールドがかなり垂直に近い立て方になっているのが、数少ない「時代相応」な部分である。ドアは窓枠のないサッシュレスタイプとしてスマートに仕上げ、ドアを閉じた際の気密性は車体側のゴムシールで確保していた。これも当時としては大胆な手法である。幅広のCピラーは、横縞の入ったステンレス板で覆われ、デザインのアクセントになっている。
スケルトン構造を生かし、許容される隙間をやや大きく取ってゴムブッシュとメッキモールを適所に用いることで、チリ合わせが厳密でなくても差し支えないデザインに仕上げてあったのは、巧みな生産性対策である。トランクフードが開いた状態でも運転席からの後方視界をほとんど支障しないように設計され、リアフェンダーは、整備時にはボルト1本を外すだけで簡単に脱着できるようになっていた。
フロントバンパーは大きな曲線を描いており、その先端に装備されたオーバーライダーが前方の駐車車両など障害物に接触していなければ、ステアリングの据え切りを一杯に行うことで、駐車位置からそのままバンパーを前方にぶつけることなく脱出することができるようになっていたという――外見よりもはるかに小回りが利いたのである。リアのCピラー上部に装備されたリアウインカーランプは、設置場所こそ風変わりだが、高い位置に付いているため後続車からの視認性が高かった(このウインカー外部は1960年までIDでは赤プラスチックであり、DSではステンレス製であったが、以降はDS・ID共に同一のステンレス製となった)。
このように一見すると全体が奇抜なDSのスタイルであるが、その実、機能面では地に足の着いた十分な合理性を備えていた。ルフェーヴルとベルトーニが、DSをあくまで「実用量産車」という視点から設計していたことの裏付けとも言えよう。
[編集] 内装
1955年当時、まだ内装用の材質としては一般的でなかったプラスチックやビニールを多用していたのも特徴である。しかも白系統など、従来では考えられなかったような大胆な色遣いを行い、材質の弱点を目立たせないような工夫が為されていた点でも高度なインダストリアル・デザインであった。またダッシュボードには連続した曲面デザインを用い、1本スポーク支持のステアリングともどもモダンな印象を狙っていた(しかし1969年以降の後期形は、黒系統・直線基調のビジネスライクなダッシュボードに移行してしまった)。
ステアリング・ホイールの1本スポークの位置には「厳密な指定」がある。これは正面衝突時、ステアリングにぶつかったドライバーを車内中心方向に逃すためである。直進時において、標準の左ハンドル仕様車では(時計で言う)「8時」の位置、英国製の右ハンドル車では「4時」の位置になる。
シートはウレタンフォームを大量に用い、ベロア系生地の表皮を与えた贅沢な構造である。この(ソファーのように身体が沈み込む)ゆったりとしたシートと、ハイドロニューマチック・サスペンションとの組み合わせによって、しばしば「雲にでも乗っているような」「船のような」などと形容される独特の乗り心地が実現された。車内には非常なゆとりがあり、そのままでもリムジンとして通用するレベルである。のちにシート生地にはビニールレザーも用いられ、「パラス」など中期以降の上級モデルでは、革張りシートもオプションで装備された。革の色は黒色とタバコ色の2色である。
1973年より北米仕様と日本仕様には、ヘッドレストの装備が義務付けられたので、シトロエン・オリジナルのヘッドレストが少数生産されて現存する。
[編集] シャーシ
初期のモノコックボディ車であったトラクシオン・アバンは、フロアパネルの構造を強固にすることでシャーシフレームの機能を果たす設計を用いていたが、DSはその手法を更に進め、プラットホームフレームを用いている。競合各社が戦後、ルーフ部分にも応分の強度を負担させる一般的なモノコック構造を用いていたのに比して、やや趣の異なる手法である。フレームの両サイドが、強度を大きく負担する大断面構造となっている。その剛性は非常に高かった。
レイアウトは特異である。第二次世界大戦後の一般的な後輪駆動車は前後に適度なオーバーハングがあり、ホイールベースも過大にならないよう配慮されている。ところがDSでは3,125mmと戦前のクラシックカー並みのロングホイールベースであり、ドライブトレーンの配置は「前方にトランスアクスル(トランスミッションとディファレンシャル)、直後にエンジン」で、トラクシオン・アバン等戦前の古典的前輪駆動車そのままなのである(当初はこのレイアウトの予定ではなく、後方トランスミッション配置の計画だったようだが、トラクシオン・アバンエンジン利用の段階でこうせざるを得なくなった)。DS以後に、このレイアウトを採った自動車は少ない。これでは車が長大になり過ぎるからである。またこのレイアウトの制約から、DSの前席足元中央には、エンジンルームの隔壁が突出していた。
フロントトレッドを1,500mmと幅広く、対してリアトレッドを1,300mmと極端に幅狭としたが、これは直進安定性の確保のみならず、小回りを少しでも効きやすくするための工夫でもあった。フランス本国仕様では後輪を前輪より1サイズ小さくして(前輪サイズ165に対し後輪155)、内輪差の抑制を図ってもいる。
[編集] 駆動ジョイント
駆動ジョイントは、前輪駆動車にとって最重要な部品の一つである。前輪駆動車のジョイントは、舵角の付いた状態でも滑らかに駆動力を伝えられる「等速ジョイント」が望ましいが、1955年当時はまだ完全な機能と強度を備えた等速ジョイントを低コストで量産できる時期ではなかった。従ってDSには不等速ジョイントが装備されていた。
DSのジョイントは、車輪側はトラクシオン・アバンと同じくダブル・カルダン型で簡単に済ませたが、車体側(差動装置側)は「トリポッド・ジョイント」を採用した。車体側には、三叉の凹みを内側に持つ壺状のジョイントケースがあり、ドライブシャフトにはここにはまり込む三叉のローラー付ジョイント部を装着する。これは厳密には不等速ジョイントであるが、従来のダブル・カルダンやトラクタ・ジョイントと違って、等速ジョイントとさほど差のない機能を得られた。
車輪側ジョイントについてはのちにダブル・カルダンをやめ、完全な等速ジョイントであるバーフィールド・ツェッパ型ジョイントに移行している。
[編集] サスペンション・レイアウト
前後サスペンションとも基部はテーパー・ローラーで支持される(非常に贅沢な設計である)。金属スプリングの代わりに、ハイドロニューマチックシステムによるエア・サスペンション方式を用いている。ハイドロニューマチックの利点を生かし、ストロークは大きく取られている。そのセッティングは徹底した直進安定性重視になっている。
フロントサスペンションは変形ウィッシュボーン式である。支点が車室寄りからのカンチレバー構造で、このためリーディング・アームと見誤る者が多いが、アームが直角に曲がっている変形タイプなので揺動の構造から見ると軸は前後方向となり、明らかにウィッシュボーンである。
シトロエンではトラクシオン・アバン以降、伝統的に全車種のリアサスペンションにトレーリングアームを採用していた。これはコストよりもスペース利用を重視したシトロエン社のポリシーによるものである。後輪荷重を垂直に受ける方が強度上は有利なのであるが、サスペンション・ストラットが車内に突出せず、車内スペースを有効に利用できるトレーリングアームのメリットを優先したのである。DSでもこれは踏襲された(のちのハイドロニューマチック及びハイドラクティブ全車も後輪はトレーリングアームである)。
トラクシオン・アバンでは、リア・トレーリングアームのスプリングには横置きトーションバーが使用されていたが、DS/ID系では金属スプリングに代わって、ハイドロニューマチックによるスフェア付きサスペンション・ユニットを前後方向へ水平に近い形で取り付けている。
フロントサスペンションは極めて凝っている。サスペンションアームとホイール部の接続を、ホイール中心の垂直線上に配置してしまっている。キングピンの地上オフセットと車軸上オフセットを無くしたいわゆる「ゼロ・スクラブ」であり、駆動力やブレーキ力がステアリング機構へキックバックを生じさせるなどの弊害を避けるための荒業であった。これはステアリングを軽くするメリットもあったが、一方でフロント・ブレーキの搭載スペースが無くなり、前輪駆動ならではのインボードレイアウトとなったのである。
[編集] パワーステアリング
ハイドロニューマチックの高圧オイルラインは、サスペンション機構以外にもDSの機能の重要な動力に流用された。その一つはステアリングである。
DS/IDシリーズのステアリング機構自体は、シトロエンが多用してきたラック・アンド・ピニオン方式である。長いタイロッドをラック中央設置としたセンター・テイクアウト配置とし、ステアリング切れ角の確保と、トー角変動の抑制を狙っている。
トラクシオン・アバンの弱点として、前輪駆動ゆえの前輪荷重の大きさに起因するステアリング操作の極端な重さがあった。そこで「重さには力で対抗」とばかりに、DSではハイドロニューマチックのオイルラインを利用してパワーステアリング機構が採用された。ロック・トゥ・ロックは2.9回転と極めてクイックである。
パワーステアリングの乗用車への導入本格化は第二次世界大戦後の事で、アメリカ車では1953年のクライスラーに始まり、続いて1954年にはキャディラックが全車に標準装備するなど、大型高級車から採用が進んでいたが、ヨーロッパではDSが最初の採用例である。他社ならパワーステアリングのため新たに特別装備せねばならないオイルポンプと高圧オイルラインが、ハイドロニューマチック車のDSには元々装備されているのであるから、技術者が利用したくなるのも無理からぬ事であった。
ハイドロニューマチックのオイルライン圧力が極力一定に保たれているため、DSのパワーステアリングは他社のそれと違い、エンジン回転数や車速に感応したアシストの変化はあまりない。このため、あまりの極端な軽さで「指一本でステアできる」とまで言われた同時代のアメリカ車のパワーステアリングと違って、DSのパワーステアリングは低速ではさほど軽くない。従って操縦感覚を損なうようなことはなかった。
なお、IDではコストダウンのためパワーステアリングがない。これはなかなか過酷な差別化ではあった……DS・IDシリーズの車重は、実に7割が前輪に掛かっていたのである。
後期形のDSでは、ステアリングシャフトにカムとスプリングを組み合わせた原始的なセルフセンタリング機構を追加し、ステアリングの復元性を高める工夫が為された。
[編集] ブレーキ
ハイドロニューマチックは、DSのブレーキにも利用された。
DS/IDのフロントブレーキは、2CVでの先例があるインボードタイプとしてバネ下重量を軽減している(前述の通り、サスペンション機構の制約もその原因である)。しかも当初からフロントディスクブレーキを標準装備した。これは量産型自動車としては世界初採用という快挙であり、高速域からの高いブレーキ能力を実現した。
DSのフットブレーキ機構は非常に独特である。ハイドロニューマチックの高圧な油圧ラインを流用し、フロントとリヤそれぞれに独立させた2系統ブレーキシステムを採用している。駆動輪で荷重も大きいフロントブレーキはブレーキ・アキュムレータからの配管に依り、リヤブレーキはリヤ荷重を保持するサスペンション油圧を利用している。さらにこのリヤの油圧を利用して、前後ブレーキシリンダーに加えられる踏力を分配した。すなわち後輪加重の大小により更に後輪ブレーキ圧を変えて、制動時の車体の安定性を増加させている。
なお、DSの「ブレーキペダル」は、バルブをゴムで覆った丸いキノコのような形状で、踏み慣れないと効き過ぎて急ブレーキになりがちであった。慣れればかえって扱いやすいとも言われたが、普遍性を欠くシステムであることは否めなかった。結局のちのシトロエン製ハイドロニューマチック車でこのキノコ状ブレーキ「ペダル」を踏襲したのは1970年の「SM」のみで、その他のモデルには引き継がれず、通常型のペダルとなった。
IDの当初のフットブレーキは、一般的な自動車同様に独立したブレーキ・ラインを備える通常型のロッキード式で、DSとは異なる構造であったが、のち1965年秋に DS/IDの全面改良に伴ってDS系と同一になった。この際、ブレーキ本体も1ピストンのフローティングタイプから2ピストンの固定式に改良されている。
なおDS/IDのパーキングブレーキは足踏みペダル式であるが、駆動輪である前輪のディスクブレーキに作動するので制動力が高く、メインのフットブレーキが作動不能になった時には即座に踏み換えることができる。
[編集] 半自動式トランスミッション
DSには、自動式クラッチを使用した特殊な4速式マニュアルトランスミッションが標準で装備されており、クラッチペダルは付いていない。アクセルとブレーキの2ペダル仕様で、全体としては半自動変速機と呼ぶべきものである。この変速機は、クラッチ作動とトランスミッションのシフトチェンジが、共にハイドロニューマチックの油圧を用いて間接的に遠隔作動するようになっている。
イージー・ドライブを意図したシステムであり、クラッチ操作の必要はない。しかし操作や作動が一般の自動車に比して特異であり、故に扱いにくいというユーザーも存在したことから、1963年以降のDSにはID系同様の通常型マニュアル・コラムシフト仕様車も用意された。
[編集] 基本構造
ステアリング上に直立したシフトレバーは、ニュートラル位置から左に倒すとスターターが作動する。ニュートラルから前方に倒すと1速、そのままゲートから右奥へ押し込んで動かすとリバースギアとなる(つまり、低速ギアで前後進せねばならない駐車場での切り返しなどでは、1速と後進を90度とはいえ同一平面上のシフトで切り替えられるのは、明らかに有利であろう)。一方、ニュートラルから手前に引くと2速で、そのまま右へ直線的に動かす事で、順次4速までシフトアップできる。
クラッチは、基本的には通常の摩擦クラッチであるが、エンジンに直結したメカニカル・ガバナーによる遠心力制御で作動する。ブレーキを踏んでいる状態ではクラッチが切れている。これはブレーキ圧がキャブレターに作動してガスを絞ることでおこなわれるので、ブレーキを離すと半クラッチ状態となり、アクセルを踏むことで完全に駆動力が繋がる。シフトレバーを動かすとクラッチは自動的に切れ、次のギアに切り替わったところで自動的に半クラッチを経て直結される。アクセルペダルから足を離しても、すぐにはクラッチは切られず、エンジンブレーキを効かせる働きをする。なお、半クラッチとなるタイミングは修理工場での調整によって変更可能であった。
油圧による半自動トランスミッションとはいえ、ギヤボックス単体のメカニズムはマニュアルトランスミッションそのもので、人力で直接動かさずに油圧ピストンでシフトしている違いでしかない。従って、ギヤボックスは(IDや1963年以降のDSの)通常型マニュアル車も含めて全車同一であった。
[編集] 改良過程
1955年の発表当初から1965年までは、シンクロメッシュ・ギアは2~4速のみで、1速と後退はノンシンクロであった。1速のシンクロ化は1965年以降である。
長期の製造期間中に多くのシステム改良が図られている。1965年の改良では、ギヤボックスがフルシンクロ化されると同時に、エンジンのパワーアップによりギア比の適切化が図られた。新たなクラッチ断続機構(clutch re-engagement corrector)により素早いギヤチェンジが可能になった。これに加えて、クラッチ系統にピストンを加え、この油圧によりスロットルの開きを抑えてエンジンのオーバーレブを抑えている(シトロエン社の広報誌「Le DOUBLE CHEVRON」No.2 1965年秋号による)。
[編集] マニュアル・トランスミッションほか
IDは通常のマニュアル・コラムシフト仕様である。当初は2,3,4速シンクロメッシュ4速ギアボックスであったが、1965年秋になりフル・シンクロメッシュになった。当然ながらクラッチペダルも付いた3ペダル構造である。通常型マニュアル車はDSも含めて末期には5速式となった。
また1970年代初期のDSにはボルグ・ワーナー社製の3段自動変速機を装備したモデルも投入されたが、少量生産に留まっている。
[編集] エンジン
DSの構成機器の中でもっとも旧式なものがあるとすれば、それはエンジンであった。中途での改良はあったものの、一貫してトルク重視の実用型直列4気筒エンジンのみが用いられた。
[編集] 試作過程
VGD用エンジンの計画段階では、既存のトラクシオン・アバン15-Six用直列6気筒の横置き配置や、星形3気筒を複列とした6気筒など常識離れした突拍子もないエンジンも考えられていたが、さすがにこれらは実現しなかった。
現実的なDS用エンジンの開発は、シトロエン2CVのタフネスな空冷水平対向2気筒エンジンの設計者でもあったワルテル・ベッキアに委ねられた。ベッキアは、DS用エンジンについても2CV同様の空冷水平対向式を採用しようと考えた。このため2CVエンジンを3列並べたような、アルミニウム製の水平対向6気筒SOHCエンジンの開発が進められることになる。
当初3.5リッターの大排気量で計画されたものの、試作当初は1.8リッターエンジンの試験から始められた。ところがこの水平対向6気筒は試作途上でのトラブル続きで、必要とされる性能が発揮できず、DSの発売を遅らせかねない事態となった。
ベッキアはやむを得ず方針転換し、従来車のトラクシオン・アバン11CVに搭載されていた古い水冷直列4気筒エンジンを流用することにした。この直列4気筒1911ccエンジンは、1934年のトラクシオン・アバン開発時、モーリス・サンチュラによって設計されたもので、設計当時としては先進的なOHV型であったが、1950年代中期ともなるとさすがにかなり古くなっていた。ただしエンジンとしての信頼性は高かった。
元来がボアよりもストロークの長い78mm×100mmの古典的ロングストローク型であり、トルクは稼げるが高速回転には不利である。クランクシャフトのメインベアリングも各気筒間を完全に埋めた5ベアリングではなく、中央部1ヶ所と両端のみで支える3ベアリングであり、これもさらなる高速化・高負荷化には有利と言い難かった。吸排気弁レイアウトも旧式なターンフロー型で、どちらかと言えば低速向けである。1954年型のトラクシオン・アバン11CVペルフォ用では最高出力56ch/3,800rpmであった(グロス値)。
[編集] 前期形
ベッキアは次善の策として、トラクシオン・アバンエンジンを徹底的にアップデートすることで必要な性能を得ようとした。元々ベッキアは1941年にシトロエン入りする前は、高級車メーカーのタルボ社に在籍しており、高性能レーシングカーのエンジン設計も行っていた人物である。それだけにアップデートの内容は、1930年代~1940年代の高性能車用エンジンを連想させるものであった。
すなわち、1911ccエンジンのブロックと排気量はそのままだったが、旧来のヘッドに代えて新しいアルミ製ヘッドを与えた。新しいヘッドは動弁機構こそOHVのままだが、ダブル・ロッカーアーム式として吸排気弁を対称配置したクロスフロー型にし、燃焼室を半球形状として燃焼効率を大きく高めた。更にウェーバーの2ステージ・キャブレターを装着した結果、DS19用エンジンの最高出力はグロス値75ch/4,500rpmにまで向上した。これはトラクシオン・アバン15CVの2900cc6気筒(77ch)に、ほとんど匹敵する性能であった。
このDS用エンジンは、既に長い実績のあるエンジンの改良であったため、完全新開発のエンジンよりトラブルは少なく済んだ。もっともそのキャラクターは、旧来からのロングストロークレイアウトの制約もあって、あくまで実用エンジンとしてのマイルドなものである。
最初のDS19の最高速度は、当初のエンジン出力がさほど大きくなかったこともあって、1955年時点では140~145km/hに留まった(それでも従来のトラクシオン・アバン15CV-sixや競合他社のモデルよりは高かった)。
IDも同一のエンジンを用いたが、デチューンされており、廉価型「ノルマル」で63ch/4,000rpm・130km/h、上級形「ルクス」で66ch/4,500rpm・135km/hとややアンダーパワーであった。
DSは1961年式から83chに出力を強化し、最高速度は160km/hに達している。
[編集] 後期形
1966年に新たなエンジンが新設計された。直列4気筒のクロスフローOHVレイアウトは同じだが、メインベアリングを5個に増やし、ストロークをボアより小さくしたショートストローク形となって、従来よりも高速化・高出力化を実現している(DS21用で90mm×85.5mm)。
排気量は1985cc(DS20)と2175cc(DS21)の二本立てとなり、前者は103ch、後者は109ch/5,500rpmを発生するに至った。DS21の最高速度は175km/hをマークした。のち1969年にはそれぞれ108ch、115chに出力を向上した。
シトロエンのエンジンについて解説した文献の中には、「DSの後継モデルのCX(1974~1989)にまでトラクシオン・アバン以来の古い設計のエンジンが50年以上も用いられた」と安易に記述している例がしばしば見られる。実際にはDSのエンジンがショートストロークの5ベアリング型エンジンへと完全刷新された1966年時点で明確に系譜が断絶しており、「水冷直列4気筒OHV」レイアウトのみが共通であるだけで全くの別物である。
IDは1966年に在来型3ベアリングエンジンのままで81chに強化しているが、翌年DS同様の新型5ベアリング・ショートストローク1985ccに変更、出力はDSに比して抑え気味の83chであった。
1971年、DS21には従来のウェーバーキャブレターに代えて、電子制御燃料噴射(ボッシュDジェトロニック)を装備したモデルが追加された。電子制御燃料噴射はフランス車で最初の採用である。これによってDS21は出力を139chに高める。
1972年登場の最終形DS23では、排気量を2347ccに拡大した。インジェクション仕様で出力141ch/5,250rpm、最高188km/hをマークしている。ID系(1970年以降は「D20」と改称)は最後までキャブレター仕様のみであった。
[編集] DSの展開
[編集] ワゴンモデル
1958年にIDをベースとして、ワゴンモデルが発表された。屋根を高めに取り、上下2分割式テールゲートと両側フィンにテールライトを縦並びにしたデザインは、当時のアメリカ製ステーション・ワゴンの影響が著しい。
座席バリエーションによって名称が分かれていた。2列5人乗りで後席折り畳み仕様とした商用メインの「コメルシアル」、コメルシアルの荷室に横向きのジャンプシート2座を追加した「ブレーク」、3列目の3人がけシートを装備して8人乗りとした大家族向けの「ファミリアール」の3バージョンである。
これらのワゴンモデルはのちにIDのほかDSバージョンも追加されて1975年まで生産され、機能性の高さと長距離走行に適した性能から、その期間中を通じて高い人気を保った。イギリスでは「サファリ」Safari の愛称で販売され、イギリス車にはほとんど類例のないキャラクターから高級ワゴンとしてやはり人気があった。
大きな荷重に対しても自動的な車高調整で一定の姿勢を保てるDS/IDのメカニズムは、ワゴンモデルにはことに適していたと言える。車高調整機能を駆使することで、停車中には荷室床面を低くして荷物の積み卸しをしやすくすることも可能だった。
またコメルシアルをベースに後席を2:1可倒式として担架搭載可能とした救急車仕様の「アンビュランス」も作られ、患者搬送のような用途にもDSの優れた乗り心地が威力を発揮することになった。DSのスタイリング・デザイナーであるフラミニオ・ベルトーニは1964年2月に脳溢血で急逝したが、このとき彼を病院に搬送したのはDSの救急車であったという。
[編集] DSデカポタブル
1958年頃から、フランスのカロシェ(ボディ架装工房。イタリアに於けるカロッツェリアと同義)であるアンリ・シャプロン等が、DSをベースにした豪奢なオープンモデル(デカポタブル Decapotable――コンパーティブル)を注文生産するようになった。強固なフロアパネルによって剛性を確保しているDSは、屋根部の強度を度外視でき、またスケルトン構造によってデザインの自由度も高い事を生かしたアイデアである。
シャプロンの架装したデカポタブル・ボディは、フラミニオ・ベルトーニのオリジナルDSデザインの美点を巧みに生かした秀逸なものである。長大なボディ・ホイールベースはそのままに客室部を縮め、僅か2+2の座席を合わせた贅沢なレイアウトは、戦前のフランス製高級車(ブガッティ、ドライエ、ドラージュ、ヴォアザン、サルムソン、タルボetc……それらは第二次世界大戦の戦禍と戦後のフランスに於ける高級車に対する禁止税的税制によって軒並み壊滅した)を彷彿とさせ、非常に魅力あるスタイルであった。シャプロンは戦前、フランス製高級車のボディ架装を多く手がけた名門カロシェである。
前述の高級車メーカーが過去のものとなった1950年代後半のフランス自動車界では、量産車とは別格なステータスのある国産高級車は唯一、クライスラーV8エンジンを搭載したモンスター的豪華車ファセル・ヴェガしか存在しなかった(そのファセルも1964年には倒産してしまうのであるが)。故にDSデカポタブルはフランスの上流層から大歓迎された。
当初シトロエンの正規モデルではなかったものの、ほどなくその好評ぶりに対応するかたちで、1960年には正式なカタログモデルとなった。架装はシャプロンが担当し、DS21に移行した後も、後継車となるマセラティV型6気筒エンジン搭載の高級クーペ「シトロエンSM」が発売された直後の1971年まで、合計1,375台が限定生産された。価格は通常型DSの2倍という超高額であった。
アンリ・シャプロンは、この他にDSのリムジン仕様とも言うべき「DSプレスティージュ」(Prestige)を製作している。前後席間にガラスの仕切りを入れ、エア・コンディショニングやステレオを装備した特装形だが、価格は通常型DSの2~3割増程度でさほど高価ではなく、公用車やハイヤーなどに好んで用いられた。
[編集] 大統領のDS
DS/IDはフランス政府機関の公用車として広範に用いられ、政治家にも常用する者が多かった。中でもフランス第五共和国大統領シャルル・ド・ゴールは、DSの愛用者の一人であり、あらゆる公式行事に際してDSを利用したことで知られる。
このクラス(2リッター級4気筒)の乗用車が先進国の国家元首専用車として用いられたのは世界的には珍しいケースであるが、実のところ、当時のフランスには他に適切な大型国産乗用車がなかったのである。
ド・ゴールのアルジェリア政策に反対する過激な右派軍事組織「OAS」は彼の暗殺を企て、1962年8月22日、パリ郊外の路上で、移動中のド・ゴール夫妻のDS19を短機関銃で襲撃した。弾丸はリアガラスを砕き、ボディに穴を開け、片方の後輪をパンクさせさえしたが、DSはハイドロニューマチックサスペンションおよび前輪駆動による無類の安定性と、運転手の優秀なテクニックによって、3輪で(!)止まることなく疾走を続け、速やかに現場を脱出した。ド・ゴール夫妻は無傷で、OASの襲撃は失敗に終わった。
このエピソードは、フレデリック・フォーサイスの小説をフレッド・ジンネマン監督が映画化した『ジャッカルの日』(1973)冒頭でリアルに再現されている(本作冒頭では閣僚を迎えるため、官邸の車回しに漆黒のDSが並ぶ豪奢なシーンを見る事もできる)。
[編集] プレジダンジェル(大統領用特装リムジン)
1968年11月には車体を大型化、防弾・装甲装備を大幅強化した大統領専用の特別型DS「プレジダンジェル」が作られ、任期末期のド・ゴールに続いて後継大統領のポンピドゥーも使用した。
アンリ・シャプロンの架装になるこのスペシャルは、直線的ディテールを随所に取り入れた、一種独特のスタイルを持つ風変わりなリムジンであった。全長6,530mm、全幅2,130mm、ホイールベース3,780mmというアメリカ製リムジンにも比肩するサイズで、総重量は2,660kgに達した。厚い防弾ガラスを装備することから、一般のDSのようなサッシュレスドアは採用されず、サッシ付きドアとなった。
エンジンは同時期のDS21用の2,175ccで4速仕様であるが、この車の目的から低速での長時間走行を想定したギヤ比にしてある。発電機とバッテリーは2系統あり(35A×2)、一方は後席エアコン専用である。スペックの詳細は不明だが、運転席の写真からはマニュアルトランスミッションであると推定される(「Le Double Chevron」No 15 1966年冬号による)。
構造は本格的なリムジンのそれで、運転席と客席の間が曲面ガラスで区切られ、客席中央に随行員用の折りたたみシートを備えていた。後席にはバーとハッチが装備され、2個のボトルとグラスが用意されている。
車体先端両脇には装飾の国旗を立てることが可能で、これはバンパーから照明された。普段は右側に自国旗(フランス三色旗)を立てるのであるが、外国からの国賓乗車時には右に相手国旗を取り付けるため、フランス国旗は左側に立てられる。また、ボンネット先端部には同心円トリコロールの飾りが付く。
外装はド・ゴール夫人の趣味により、グレー系のツートーン(ボディ=Alize Grey、ルーフ=Silver Grey)に塗装されていた。
[編集] ラリーでの戦績
アンダーパワーで巨大な図体のため、ハイパワーや小回りを活かした機動性などとは無縁なDS/IDシリーズであるが、実は多くのレースやラリーに出場して好成績を収めている。前輪駆動と低重心構造によってもたらされる高い操縦安定性と、ハイドロニューマチックによって確保されるサスペンションのしなやかさは、特にラリー・フィールドにおいて大きな長所となった。
プライベーターたちの手で早くも1956年からモンテカルロ・ラリーに出場、1959年にはポール・コルテローニのID19(ほとんどノーマル状態に近かった)が優勝した。1960年からはシトロエン社のワークス・チームがDSで活動を開始、優勝こそ多くなかったが多くのラリーで上位入賞する好成績を挙げた。1963年のモンテカルロで総合2位、1964年のアクロポリス・ラリーで2位など、より強力な競合チームと互角の戦績を残したことは特筆に値する。
1966年には高速型の新型エンジンを搭載したDS21が登場、ラリーにも投入された。この年のモンテカルロ・ラリーでは、パウリ・トイポネンのDS21が総合優勝しているが、実は1位から3位を独占したイギリスのBMCミニ・クーパーSが、後になってから「灯火レギュレーション違反」といういささか首を傾げるような理由で失格とされ、4位のDSが繰り上げ優勝となったものである。この失格判定はフランス側による自国びいきな不当判定の疑いが濃厚であり、純粋に戦績としての評価に値するかはしばしば疑問が呈されている。
この時期になると競合チームの性能向上も著しかったことから、シトロエンではDSのラリー・フィールドを、北アフリカ等での耐久レースに移行させることにした。もともと長距離走行を得意とするDSは、モロッコ・ラリーなどの過酷な環境でタフネスさを発揮した。
1969年には、DSの全長をホイールベースともども強引に大幅短縮し、低いルーフのクーペボディを与えた軽量なスペシャルが製作された。このDSクーペは、1969年のモロッコ・ラリーでデビューし、従来型DSと共に1位から6位まで(4位を除いて)独占する成功を収めた。DSによるラリー活動は、生産期間最終期にあたる1970年代中期まで続けられた。
[編集] 影響
DSは、1955年の時点において想像を絶する先進性を備えた自動車だった。「エンジニアのあらゆる理想を具現化した驚異の存在」として、競合メーカーの技術者たちにも強い感銘を与え、畏敬すら受けた。そして多くの自動車メーカーが研究用車両としてDSを購入した。それは日本のメーカーも例外ではない。
しかし、あまりに進歩しすぎ、そしてあまりに当時の常識を逸脱していたがために、他のメーカーはDSを模倣したくても模倣できなかった。このようにアブノーマルな自動車を自社で生産することは、ほとんどの自動車メーカーにとって技術・販売の両面から明らかに無謀きわまりなく、競合各社は従来の後輪駆動方式を堅持しつつDSを追撃することになった。アバンギャルドな手法への包容力があるフランスの国情と、シトロエンというメーカーの強烈な個性によって、DSは成立し得たとも言える。
従って、DSのエピゴーネンといえる自動車は後年までまったく存在しなかった。強いて挙げるならば、DSに強いシンパシーを抱いたイギリス・レイランド社の技術者スペン・キングやディヴィッド・ベシェらによって設計された高速中型セダンの名作「ローバーP6」(1963年)が該当するであろう。しかし、工場所在地にちなんで「ソリハル・シトロエン」とまで言われたこのP6は、実のところ、剛性の高いシャーシと長いホイールベース、大きなサスペンションストロークとによって優れた操縦性や乗り心地を確保しようとするDSの思想のみを継承したもので、複雑な金属サスペンション機構を持つ3ボックスの後輪駆動車であり、外見やメカニズムは相当に異なる(試作車のデザインはDSに類似していたが)。
ハイドロニューマチックは、ロールス・ロイスやメルセデス・ベンツにおいて、高級車のサスペンションシステムに一時採り入れられたが、世界的に一般化することはなかった。むしろ技術的な大勢は、通常の金属スプリングとショックアブソーバーの組み合わせで、より良好な特性を追求する方向に流れた。数少ない例として、「ミニ」を生み出したイギリス・BMC社のアレック・イシゴニスと彼に協力した技術者アレックス・モールトンは、ポンプ等の一切ない「簡易ハイドロニューマチック」とも言うべき「ハイドロラスティック・サスペンション」を考案し、BMC系列の一部車種に採用した。
変速機についても、DSの半自動式は一般化しなかった。ギアの選択操作を強いられる点では前世代の半自動変速機であるプリセレクタ・トランスミッションの発想の延長に過ぎず、発展性に限界があった。イージー・ドライブ化の手法としては、DSの半自動式よりも更にイージーなフル・オートマチックの自動変速機が、アメリカからの技術導入で1950年代後半以降ヨーロッパにも広まり、上級車種についてはオートマチックが当然となった。やがてはシトロエンもこの流れに屈することになる。一方、乗用車におけるスケルトン構造は、モノコック構造主流な風潮の中では一般化しなかった。
DSの要素の中でも普遍性を備えた技術であったパワー・ステアリングとディスクブレーキは、1950年代後半にヨーロッパ各国の上級車種で採用例が続出した。パワー・ステアリングについては、対米輸出の過程でアメリカのユーザーのニーズに応えたという面も大きかったが、DSで先行して採用されたことは大きな刺激になった。また、DSほど「過激」でないにしても、空力特性を重視したボディデザインはこれ以降徐々に一般化していくことになった。そして前輪駆動方式の本質的な優位性は、DSという「前輪駆動方式の極致」によって実証されたとも言え、多くのメーカーは小型車の分野から徐々に前輪駆動へ傾倒していくことになる(とはいえ、大排気量車での前輪駆動が一般化するのは1980年代まで待たねばならない)。
総括的に見て、DSのテクノロジーはむしろ精神・思想の面で間接的に多くのヨーロッパ車に継承されたと捉えるのが妥当であろう。
[編集] その他
[編集] メディアにおけるDS
フランスにおいては非常にポピュラーな存在であった事から、1960年代~1970年代のフランス映画やフランスを舞台にした外国映画には当然のごとく頻出する。その中でもDSを魅力的に描いていたのは、アラン・ドロン扮する殺し屋がDSを足に用いていたジャン・ピエール・メルヴィル監督のハードボイルド映画『サムライ』(1968)、ド・ゴール暗殺計画を史実を交えて描いたフレッド・ジンネマン監督のサスペンス映画『ジャッカルの日』(1973)であろう。
アバンギャルドだが洗練されたDSのデザインは、未来的なオブジェとしての効果も絶大であり、『バック・トゥ・ザ・フューチャー2』では、主人公たちのデロリアンDMC-12に互し、未来世界でエアカーとなって空中を飛んでいる怪DSが現れた。
21世紀初頭現在の日本でも、芸能人やファッション業界人、また知的産業に従事するスノッブな趣味の人々にDSを愛好する向きがあるためか、「洒落た車」と認識されており、オブジェとしてミュージッククリップやテレビコマーシャルにも好んで使われる。漫画やアニメーション等では概して、乗る者の「お洒落さ、趣味の良さ」ないし「奇人変人らしさ」(マッドサイエンティスト等)を象徴する小道具として扱われている。
[編集] DS愛好者たち
DSシリーズは複雑怪奇なメカニズムによって維持には非常な困難を伴うが、その困難をおして21世紀初頭の現在でも、愛好者らの手によって世界各国で多数が可動状態に保存されている。
DSデビュー50周年の2005年10月9日には、パリに世界各国から大量のDS/IDが集結し、大通りに列を成す大パレードが行われた。その台数は無慮1,600台にも達したという。