シドニー (軽巡洋艦・2代)
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シドニー | ||
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艦歴 | ||
起工 | 1933年7月8日 | |
進水 | 1934年9月22日 | |
就役 | 1935年9月24日 | |
喪失 | 1941年11月19日 ドイツの仮装巡洋艦コルモランと交戦 |
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除籍 | - | |
要目 | ||
艦種 | 軽巡洋艦 | |
艦級 | パース級軽巡洋艦 | |
基準排水量 | 6,980t | |
全長 | 171.37 m | |
全幅 | 17.27 m | |
吃水 | 4.77 m | |
機関 | パーソンズ式オール・ギヤード蒸気タービン、4軸 | 72,000hp |
速力 | 最大32.5ノット | |
乗員 | 570名 | |
武装 | 15.2cm(50口径)連装砲 | 4基8門 |
10.2cm(45口径)単装高角砲 | 4門 | |
12.7mm 4連装機銃 | 3基 | |
53.3cm 4連装魚雷発射管 | 2基 | |
搭載機 | 水上機 | 1機 |
イングランド東北部のスワン・ハンター社で建造。最初は艦名はフェートンであったが、建造中にオーストラリア政府に買収された結果、シドニーと改名され1935年9月に竣工した。
就役後地中海で活動し、オーストラリアに来たのは1936年8月のことである(8月2日シドニー到着)。1940年、シドニーは地中海に派遣された。コロンボ経由でアレキサンドリアに5月26日に到着しイギリス地中海艦隊に編入された。そこで、イギリスの軽巡洋艦ネプチューン、オライオンなどと共同で6月21日にリビアのバルディアを砲撃した。また、28日にはイタリアのトゥルビーネ級駆逐艦エスペロをトブルク沖で撃沈した。
戦艦ウォースパイト、マレーヤ、ロイヤル・サブリンなどと、アレキサンドリアからマルタ島への船団護衛中の7月9日イタリア艦隊と交戦した(カラブリア沖海戦)。
7月19日、スパダ岬沖海戦に参加。この海戦ではイタリアの軽巡洋艦バルトロメオ・コレオーニが沈没した。
11月12日、タラント空襲支援のためアドリア海に向かったシドニーと軽巡洋艦オライオン、エイジャックス、駆逐艦ヌビアン、モホークはオトラント海峡でアルバニアヘ向かっていたイタリア船団を発見、攻撃した。この船団は4隻の船からなり、旧式の水雷艇ファブリッツィと仮装巡洋艦ラム3世が護衛していたが、4隻とも撃沈されファブリッツィも大破した。
[編集] コルモランとの戦闘と喪失
1941年2月5日、シドニーはオーストラリアに戻り、その後はインド洋で船団護衛に従事していた。11月19日、シドニーはシャーク湾沖約170浬のインド洋でオランダ船に偽装していたドイツの仮装巡洋艦コルモラン(HSK 8, 武装:15cm砲6門他)を発見した。
以下はコルモランの艦長以下の証言による戦闘概況である。コルモランはパースの港口に機雷敷設に向かう途上であったが、シドニーからの誰何に対しわざとモタモタしながら時間を稼ぎ、有利に攻撃を開始する機会をうかがっていた。コルモランからはシドニー艦上で偵察機の射出準備をしている様子が窺われたが、射出は行われなかった。シドニーが1-2kmの間隔を置いてコルモランの真横に並び、秘密の船舶コードを示すよう信号したとき、コルモランはオランダ商船旗を下ろしてドイツの戦闘旗を掲げ、同時に15cm砲や発射管を隠していたフラップを開き、対空砲座をせり上げ、戦端を開いた。その時シドニーの各砲はコルモランを指向していたが、総員配置の命令は出されていなかったらしく非番らしい乗員が甲板にたむろしていた。
攻撃開始後すぐに、コルモランの対空砲の砲弾がシドニーの艦橋や発射管周辺に炸裂し、また砲撃指揮装置を破壊した。またコルモランの魚雷がシドニーの前部A・B両砲塔の間に命中しどちらも動かなくなった。一方シドニーの後部砲塔はコルモランの機関室に命中弾を得、火災を発生させた。コルモランの15cm砲はシドニーの各部に命中し続け火災が拡がりやがて全火砲が沈黙した。コルモランでは消火設備が破壊されて消火活動ができず、15cm砲も過熱のためにやがて発射不能となった (およそ550発の15cm砲弾を発射しほとんどは命中した) 。最後にシドニーは魚雷を発射したがかわされ、衝突を試みたがこれもかわされ、激しい炎と煙を上げながらコルモランの視界外に去った。独艦はやがて機関室の火災が機雷庫に及んで爆沈し、ボート・救命筏などに退避した乗員の一部は自力でオーストラリアの西海岸に到着し、ほぼ同時にシドニーの捜索が開始されたが、捜索に向かった艦は独艦の乗員を救助したのみであり、シドニーは破損した救命筏一艘だけを残し、645人の全乗員と共に姿を消した。コルモランでは397人中317人が救助されるか、自力で海岸に到着して捕虜となった。
シドニーと全乗員の喪失はオーストラリア海軍史上最大の悲劇であり、オーストラリアのほとんどの町から乗員が出ていたため、同国社会に大反響をもたらした。戦闘の模様を語るのがドイツ人の捕虜のみであり、なぜシドニーが不審船に用心を怠って先制攻撃で致命傷を受けるほど接近したかなどはドイツ人捕虜の説明では納得し難かったため、彼らが何か国際法に悖る手段を用い口封じにシドニーの生存者を皆殺しにしたとか、日本の潜水艦が介入して魚雷でシドニーを沈めたとかいった様々な説が広まっている。
[編集] 外部リンク
リアンダー級軽巡洋艦 |
パース級軽巡洋艦 |
パース(アンフィオン) | ホバート(アポロ) | シドニー(フェートン) |
イギリス海軍艦艇一覧 |