タラス河畔の戦い
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タラス河畔の戦い(タラスかはんのたたかい, 751年7月-8月)は、中央アジアのタラス地方(現在のカザフスタン領)で唐とアッバース朝の間で行われた戦闘。唐とアッバース朝の中央アジアの覇権を巡る天下分け目の戦い、製紙法が西方に伝播した戦いとして有名。
[編集] 概要
安西節度使として西域(東トルキスタン)に駐屯していた唐の将軍高仙芝が西のソグディアナ(西トルキスタン)に圧力をかけたため、シャーシュ(現在のタシュケント)の王はシル川以西を支配するイスラム勢力に支援を要請。これに応じて747年にウマイヤ朝勢力をメルヴから追ってアッバース朝のホラーサーン総督となっていたアブー・ムスリムは部下のズィヤード・イブン・サーリフを派遣し、ズィヤードの率いるアッバース朝軍と高仙芝率いる唐軍は、天山山脈西北麓のタラス河畔で衝突した。
戦いの最中に唐軍に加わっていた天山北麓に遊牧する遊牧民カルルクがアッバース朝軍に寝返ったために唐軍は壊滅し、高仙芝は逃げ延びたものの、多くの兵士が捕虜となった。この戦い以降、中央アジアにイスラム勢力の安定支配が確立し、ソグド人やテュルク系諸民族の間にイスラム教が広まっていった。中国の側では、まもなく起こった安史の乱の影響もあって唐の中央アジア支配は後退していった。