ヒ水の戦い
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淝水の戦い(ひすいのたたかい)は中国五胡十六国時代に華北の前秦軍と江南の東晋軍とが382年に淝水(現在の安徽省寿県の東南)で激突した戦い。淝はさんずいに肥。
[編集] 事前の経緯
華北の覇権を握っていた後趙が瓦解した後、氐族を主とする集団が建てた前秦が台頭し、三代皇帝苻堅が漢人王猛の助けを借りて376年に華北を統一した。
苻堅は非常な理想主義者で、民族的差別を行わないと言う事で、自分たちの本拠である関中に東にいた鮮卑を移し、逆に東へ氐族を移すと言う事を行った。また前述の王猛のように氐族以外からも人材を積極的に登用し、枢要な地位につけていた。
苻堅はこのような処置により、領内に於ける氐・鮮卑・匈奴・漢族の民族を融和させ、来るべき南北統一のための戦い、すなわち対東晋戦への前段階にしているつもりであった。しかし王猛はこのやり方で民族対立が納められたとは思えず、また漢人の心情では東晋を本来の宗主国とあがめる者も多く、対東晋戦は危険である。との見方を持っており、度々苻堅に対して東晋戦を行わないようにとの進言を行った。
華北統一の一年前の375年に王猛は、「晋を攻めないように。鮮卑・羌(前燕から降った慕容垂と羌の姚襄のこと)は仇敵だから何れ害となる。徐々に力を削って排除してしまうように。」と遺言して死去した。
しかし苻堅はこれに従わず、378年に東晋の襄陽を攻めて、翌年の二月に陥落させる。この時に襄陽を守備していた梁州刺史の朱序が捕虜となるが、苻堅はこれを赦して度支尚書(財政担当大臣)としている。その後、前秦軍は更に東へ進むが、東晋の謝安の軍に押し返される。
苻堅は東晋討伐を群臣に図り、一族・家臣皆が反対したが、ただ慕容垂のみが賛成し、苻堅は南征を決心する。
[編集] 淝水の戦い
383年五月、この情報を聞いた東晋は先んじて行動を起こし、桓沖に襄陽を楊亮に蜀を攻撃させる。前秦はこれを押し留め、八月に苻堅の弟の苻融・張蚝(蚝は虫偏に毛)・苻方・梁成・慕容暐・慕容垂らに25万の軍を預けて先鋒とし、自らは歩兵60万・騎兵27万と言う大軍を引き連れて長安を出発した。(兵数はあくまでそう称したと言う事で、実数は半分かそれ以下と思われる)
十月、苻融の軍は東晋の首都建康の西北西200Kmに位置する寿春(現在の安徽省寿県)を陥落させ、梁成の軍は洛澗で駐屯した。東晋の宰相・謝安はこれに対して弟の謝石と甥の謝玄に七万の水軍を預けて洛澗を攻撃させ、梁成を殺した。
その後、東晋軍は淝水に進み、前秦軍も苻堅の本隊が寿春に入った。両軍は河を挟んで対峙し、苻堅は降伏勧告の使者に朱序を送ったが、朱序は東晋の軍に入ると「前秦の百万の軍が終結してしまうと勝てません。先鋒を挫けば良いでしょう。」と謝石たちに対して進言した。
謝石もこれを受けて苻堅に対して「渡河して戦おうではないか」と誘いをかけ、苻堅もこれに乗った。苻堅はこの時に自軍を少し引かせる事で相手を誘い込み、東晋軍が河を渡りかけた所でこれを撃つといういわゆる「半渡」を狙う事にした。
前秦軍は予定通り、わずかに後退し、それを追って東晋軍が渡河した。さあ、今だ!と反転するはずであったが、兵士たちの後退の足は止まらない。兵士たちに苻堅の考えた作戦は説明されておらず、後退することが退却することと勘違いされたのである。しかも朱序が軍内を走り回り、「負けた、退却だ!」と喧伝して回っていた。
その後ろから渡河を終えた東晋軍が襲い掛かり、前秦軍は総崩れになった。苻堅は単騎で逃げ、苻融が戦死した(または生き延びたともいわれる)。苻堅は途中で慕容垂により保護されて十二月に長安に帰還した。
[編集] 戦後
この戦勝の知らせが届いた時に謝安は客と囲碁を打っていたが、この報を聞いた客からどうなったかを聞かれて「小僧たちが賊に勝った。」と平然とした振りをしていたが、客が帰った後に部屋の中で小躍りし、下駄の歯をぶつけて折ってしまったが、それに気づかなかったと言う。その後の東晋はこの名声を元に謝安がしばらくの間、政権を執る。
一方、敗れた前秦は、この敗戦で一気に統制力が緩み、華北は再び戦乱の時代となる。
慕容垂は弟の慕容徳に苻堅を殺して自立しようと誘われるが、それは出来ないと断り、東の鎮定に出ると言う名目で苻堅と途中で分かれた。そして故郷である鄴(河南省臨漳県。旧前燕の首都)に戻り、ここにいた苻堅の庶長子の苻丕と争い、翌384年に自立して燕王となった。これは後燕と呼ばれる。
同じ頃、前秦の北地長史であった慕容泓は華陰で兵を挙げた。また同時期に関中で挙兵していた弟の慕容沖は苻堅の軍に敗れて逃亡し、慕容泓と合流した。これに対して苻堅は姚萇を派遣するが、慕容泓はこれに勝つ。更に苻堅に捕らわれていた慕容暐を助けるために長安攻略を目指すが、途中で部下に暗殺される。その後を慕容沖が継ぎ、長安を攻めて苻堅を敗走させ、ここで即位した。これは西燕と呼ばれる。
慕容泓に敗れた姚萇は敗戦の罪で苻堅に誅殺されることを恐れて逃亡し、渭北(渭河の北)で羌族を集めて自立した。これは後秦と呼ばれる。
前秦の将軍として西域に遠征していた呂光は一旦帰ってきた所で淝水の敗戦を聞き、甘粛で自立して386年に涼天王を名乗った。これは後涼と呼ばれる。
長安から逃げた後の苻堅は385年の七月に姚萇により捕らえられ、禅譲を強要されるが、これを断り、首を絞められて殺される。その死を聞いた苻丕は河東(黄河が北流する東)で皇帝に即位するが、西燕に大敗し、逃れた所を東晋軍に攻められて殺される。その後、一族は抵抗を続けるが、394年に完全に滅ぼされる。
この後、更に西秦や夏などが誕生し、更に混乱は深まるが、386年に拓跋珪(道武帝)により復興された代国が魏(北魏)と名前を変えて勢力を伸ばし、最終的に華北を統一する事になる。