ルイーゼ・ライナー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ルイーゼ・ライナー(Luise Rainer、1910年1月12日-)は、ドイツ生まれのアメリカ合衆国の映画女優。第9回(1936年)と第10回(1937年)のアカデミー主演女優賞を獲得した。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] ドイツにて
ドイツのデュッセルドルフで裕福なユダヤ人の家庭に生まれた。彼女は舞台を目指し、ドイツ内の舞台に彼女は立った。若い女優にとって彼女はマックス・ラインハルトの監督する伝説的な劇団を知り、オーストリアのウィーンで彼の劇団に入団した。「私は素晴らしい贈り物と思いました。彼に聞いてみました。彼も私を劇団の一員にしたかったらしいです。」と1997年のインタビューでは答えている。彼の監督下で何年もかかってウィーンで女優として成長してきた。ラインハルトの劇団の一員として、ベルリンとウイーンで1930年代初めには最も人気のある舞台女優になった。ライナーはラインハルトの演出の元に才能を発揮し、印象主義的な演技スタイルを獲得していった。
[編集] 米国にて
ライナーはすでに十代でスクリーンデビューを果たしており、他に3本のドイツ語映画にも出演した。しかし、ヨーロッパでの実績はオーストリア人のアドルフ・ヒトラーが台頭して終わってしまった。ライナーはタレント・スカウトが7年越しで米国のMGMスタジオから招聘されていた。25歳のライナーは契約を交わし、米国に移住した。彼女は"Escapade"という作品で米国デビューを飾った。オリジナルではマーナ・ロイが演ずる役だった。彼女にとって良かったことはウィリアム・パウエルを共演させ、カメラの前でどのように演じればよいのか教えてくれたのだ。ライナーが記憶している所によると「親切な人」とか「よくできた人」のパウエルがMGMのボスであるルイス・B・メイヤーにうまく働きかけたようだ。伝えられる所によると「君はこの娘をスターにし、私は雑魚のように見えるだろう」と言ったそうだ。
"Escapade"の撮影中、ライナーは当時高名だった左翼の脚本家クリフォード・ブラウンに出会って恋をし、ついに1937年結婚した。それは幸福をもたらさなかった。
[編集] 『巨星ジーグフェルド 』
MGMは『巨星ジーグフェルド 』(1936)で主役ジークフェルド役にパウエルを主役としてライナーに助演させた。この作品はジークフェルドがブロードウエイに作り出した「フォーリーズ」を再現して、ミュージカル・ナンバーを散りばめた彼の半生を超大作として映画化しているのである。
ジークフェルドの内縁の妻アンナ・ヘルドとしてライナーは演じミュージカル・ナンバーで際だった演技を見せているが、彼女が最も印象に残るシーンは彼女の電話のシーンである。『巨星ジーグフェルド 』は大ヒットし、1936年度のアカデミー作品賞を獲得した。
ライナーは2つの成功したアカデミー主演女優賞のまず1つめをヘルド役で獲得した。この受賞に関しては大いに議論となった。彼女の知名度が低いのと、ノミネートされたのが最初であることもあるが、彼女の役が比較的小さく登場時間も短いので助演部門にノミネートさせたほうが良かった、という意見があった。(この年は米国映画芸術科学アカデミーはアカデミー賞に助演部門を加えた。彼女のスタジオMGMは、彼女を主演部門としてリストに載せ、彼女への反対票は少なくなった。)
物議を醸し出したのは、彼女より有名でありより尊敬されている『襤褸と宝石』 (1936)でのキャロル・ロンバート(彼女は唯一のノミネートだった)、『ロミオとジュリエット』(1936)のノーマ・シアラー(5回目のノミネーション)、『花嫁凱旋』(1936)でのアイリーン・ダン(5回の不発のノミネーションの2回目)がいたのに、ライナーがどうして獲得したのか、ということである。意地悪な人間はルイス・B・メイヤーが指揮してMGM以外のアカデミー会員を操作して獲らせたことを不快に思っていた。他の批評家たちは彼女が賞を獲得したのは、素晴らしい演技より『巨星ジーグフェルド 』の規模(当時200万ドル)に桁外れに印象づけられたためだと考えていた。ほとんどの評者はライナーは彼女の心を動かされる的確な演技によって獲得したと結論づけた。
映画の中の単独出演シーンで、失意のヘルドがやがてジーグフェルドとビリー・バーグが結婚するのを冷静に品位を持って電話越しに祝う有名なシーンである。このシーンはカメラはライナーに焦点を合わせ、彼女も離れ業の演技を成し遂げている。数年後映画史に残る最も有名なシーンの一つとなった。他の女優がヘルドを演じていたら過度のを過度の感傷的な演技になってしまうところだが、ライナーは哀愁感を漂わせフィルムに焼き付けた。
彼女はこのシーンの解釈をジャン・コクトーの劇"La Voix Humaine"(「人の声」)でのシーンの演出から考え出した。ライナーは覚えていた。「それは比べたのよ。ジーグフェルドの物語の中に適するように、私がその部分を書き換えたの。それは思いつきであって、コクトーではなかった。」映画の公開後60年後のインタビューであるが、ライナーは演技に否定的であった。「私は、この映画のその他の部分が好きであっても、私は絶対に誇れることはないわ。映画の仕事というのは私をあなたに説明せよと言うことと同じ。それは赤ん坊を持っているのと同じことなの。働いて働いて働いてやっと持てることができるの。それから赤ん坊は大きくなり、やがて離れていくわ。しかし、赤ん坊を持って誇りに思う?誇りって?そんなものは有りはしない。どの雌牛だって赤ん坊を持つことができるじゃないの。」
[編集] 『大地』
ハリウッドでの一騒動の後、最初のアカデミー賞をしのぐ演技を見せた。MGMのプロデューサー、アーヴィン・タールバーク(彼は「ワンダー・ボーイ」と呼ばれていたがこの作品は遺作となる)によるパール・バックの長編小説『大地』の壮大な映画化である。彼女は阿藍(オーラン)を演じて2度目のアカデミー主演女優賞を獲得した。
『大地』の成功はリアリズムに負う所が多い。そのリアリズムはライナーが演ずるところと彼女の夫として共演した伝説化したポール・ムニによって生み出されたのである。タールバーグはムニに王龍(ワンルン)を演じてもらうのにあたって、中国系アメリカ人のアンナ・メイ・ウォンを阿藍(オーラン)役にするのを諦めざるを得なかった。検閲するヘイズ・オフィスから実際の中国人の女性と黄色い厚いメイクをしたコーカサス人でも異種族混交のヒントになりかねないと許可出来ないおそれがあったためである。それでタールバークはライナーに役を回し彼女が阿藍(オーラン)役を引き受けた。
彼女は厚いメークを断り、中国人を観察した結果彼女の妖精のような演技を行った。彼女の演技は同様に中国人に扮したマーナ・ロイやキャサリン・ヘップバーンを凌いだ。1990年代終わり頃ライナーはこの作品の映画監督シドニー・フランクリンを「素晴らしい」と評価し、彼女の演技が「メソッド」法を利用していること、しかもこの方法は彼女の夫の属していたグループ・シアターがニューヨークに持ち込んだ先駆者であったことを説明した。「私の内面を外に押し出して演じていた。その様子が私自身でなくてもいい、顔に出さなくても、メイクアップを施さなくても、仮面をかぶらなくてもよかった。私の内面を押し出さなければならない。私がしたいと思うこととしなければならないことがわかっていた。」と語った。
ライナーはこの演技で2個目のアカデミー主演女優賞をしかも初めて連続して獲得した。(スペンサー・トレイシーはこの年『我は海の子』(1937)と翌年の『少年の町』(1938)で連続受賞した。1936年に初めて設けられた助演者部門ではウォルター・ブレナンが『大自然の凱歌』(1936)、"Kentuckey"(1938)、『西部の男』(1940)と3度受賞しており、演技部門ではイングリッド・バーグマンもジャック・ニコルソンも3度受賞しているが、キャサリン・ヘプバーンの4度受賞は破られていない。)
[編集] 後半生
ライナーの実績はすぐに吹き飛んでしまった。彼女は「オスカーの呪い」の最初の犠牲者になってしまったのだ。この現象はアカデミー賞を獲得した後多くの俳優のキャリアが急降下してしまうのだ。「私の2番目と3番目の出演作がアカデミー賞をもらったのよ。この上もないことなのに。」と彼女は言う。反逆児だったライナーはハリウッドの体質に合わず閉め出されてしまう。1990年代終わり頃ライナーは話した「私は素晴らしい劇団のグループのあるヨーロッパからやってきて働いた。私の心がけは良い仕事を行うことだった。アカデミー賞なんか知らなかったのよ。」
MGMのボス、メイヤーは米国映画芸術科学アカデミーの創設者であり、影の実力者であった。彼は無理矢理でもオスカー授賞式の会食まで連れてきた。彼女は、「大地」以降のMGMの体質に対して反抗的であった。MGMのプロデューサー、ジョセフ・M・マンキーウィッツがドロシー・アーズナーに監督を割り当てたフェレンク・モルナーの未発表の劇「トリエステから来た少女」はライナーの出演を想定していた。彼女が熱望していたのは、売春婦が改心しようとする内容で尊敬すべき舞台劇であったからだ。1936年タールバークの死後、MGMはメイヤーのより軽い審美眼で作品を生み出していた。かつてすべての女性は売春婦であると言い放ったエリッヒ・フォン・シュトロハイムを追放した。メイヤーは心から女性の美徳と母親の精神を尊敬し、女性を台の上に飾るようなものだ、と信じ切っていた。そして、かつて脚本家のフランシス・マリオンに言ったのは、彼の妻や子供たちが困るような作品はMGMで作らないということだった。より粋なタールバーグを失いスタジオは干渉され続け、モルナーの原作劇は書き換えられ、もはや売春婦の設定は消え、ハッピーエンディングになった少しほろ苦いシンデレラストーリーと化した。マンキーウィッツは題名も『花嫁は紅衣装』(1937)に変え、ジョーン・クロフォードと主演は入れ替えられた。
1976年ニューヨーク・タイムズによるとアーズナーはライナーが「共産主義者(クリフォード・オデッツ)と結婚している。」と主張した。これはMGMだけでなく、他のスタジオでも疑わしい共産党員に給与を支払っていたのだが、加入者はMGMが一番多かったのである。(MGMは共産党員であれ一番優れた脚本家を雇っていたのでクビにはできなかったのである。)スタジオは1947年のワルドルフ会議まで全く共産党員に手出しができなかった。それ以降、非米活動委員会が動き出し、赤狩りが始まったのである。
ライナーにもこの影響がでて、彼女のプロジェクトやアカデミー賞の威光でより良い役につくのが難しくなった。彼女の再生への情熱も急速に衰えた。1990年代後半になってライナーは再びヨーロッパの舞台に立ち満足した。その時のインタビューは「ある日私たちは大きなツアーを組むことになった。私たちはルイジ・ピランデルロやラインハルトの演目を実際行ったのよ。私は決して忘れなかった。それは私が受けたどんなアカデミー賞を受け取った時より最高のご挨拶だったわ。彼は私の方にきて言うのー私たちは決して名前を呼んだりしなかったー「ライナー、この演目をどうするのかい?」と言われたとき素晴らしかった。「これをどのように作り出すのかい?」と言われた時はびっくりして幸福だった。それが私のアカデミー賞よ。」
ライナーはまだ現在もアカデミー賞を否定する態度だった。最近も彼女は「私はオスカー像を見たことがないわ。みんな父親にも母親にも祖父母にも看護婦にも感謝しているけれど、それはやはりおかしいし、見苦しいわ。」また彼女は急に業績が傾いたことに対してもスタジオとメイヤー本人を非難している。1997年のインタビューでは「彼らがやっていたことが私を駄目にしたの。私は誰もがとても何か良いことをごく自然に夢見ていた。しかし私が2個のアカデミー賞を獲ったあと、他の女優が獲得するのが難しいとスタジオは思ったのね。彼らは私にあらゆることをぶつけてきたの。いや、私を女優として見たくなかったのよね。」
タールバーグが『大地』の撮影中急逝したとき、ライナーは彼女の庇護者がいなくなったのを感じていた。また、彼女に回ってきた6本の作品もすべて駄作であった。
1943年以来、ライナーは銀幕に主演していない。
ハリウッドを離れ、1945年再婚し、出版業を営む夫と共に現在は英国に在住している。
[編集] エピソード
- 彼女は初のアカデミー賞俳優部門連続受賞者である。
- 彼女は初の実在する人物を演じてアカデミー賞を獲得している。
- 彼女はアカデミー賞を獲得した唯一のドイツ人である。
- 彼女は2回アカデミー賞にノミネーションされ、2回とも受賞している。
- 彼女は30歳前に2回アカデミー賞を獲得している唯一の人物である。
[編集] 出演した主な作品
- 巨星ジーグフェルド -The Great Ziegfeld (1936)
- 大地 -The Good Earth (1937)
- グレート・ワルツ -The Great Waltz (1938)