三浦半島
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三浦半島(みうらはんとう)とは、神奈川県南東部にある半島である。
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[編集] 地理
- 行政地域
太平洋に向けて突き出し、東京湾と相模湾とを分ける。横浜市磯子区の南西にある円海山から藤沢市片瀬にいたる線を北限とし、円海山の北麓で多摩丘陵に接続する。
地質学的研究や化石などの古生物学的研究、地震波を用いた研究などによれば、三浦半島や房総半島などの地層は約2000万年から1500万年前に太平洋の深海底の太平洋プレート上で誕生したと考えられている。プレートの上に積もった堆積物が現在の三浦半島の地層になり、誕生した地層はプレートに沿って北へ移動、プレートが海溝に潜り込む事により生じる運動で徐々に隆起し、約50万年前に海上に出て日本列島とつながった。また、フィリピン海プレートに沿って移動してきた伊豆半島が日本列島に衝突した事によるエネルギーで三浦半島は時計回りに回転して現在の位置となる。隆起は現在も続いており、関東大震災の折にも城ヶ島周辺の広い範囲で海岸線が数メートル隆起している。将来的にはさらに陸地が増えると考えられるが、地球温暖化による海面上昇で侵食が進めば海岸線がより複雑になるとも言われる。
半島東端の観音崎は東京湾の南限であり、浦賀水道を隔てて東の房総半島とともに東京湾を囲む。半島の西には伊豆半島がある。地質的にはほぼ全域が第三紀層に属する。またおよそ西北西 - 東南東方向に走る衣笠断層帯、北武断層群、武山断層帯、引橋断層の4箇所の活断層が存在し、三浦半島断層群と呼ばれる。植生は常緑広葉樹林。半島東部の横須賀市から鎌倉までの北部は市街地が、中央部から南部には森林や畑などが広がる。三浦丘陵が中央に走り、最高峰である標高241m の大楠山や円海山がある。東京湾・浦賀水道に面して横須賀港や久里浜港、半島西部には小田和湾や小綱代湾がある。半島南端には城ヶ島が付属する。
[編集] 施設
Category:横須賀市、Category:三浦市等も参照のこと。
- 横浜・八景島シーパラダイス
- 京急油壺マリンパーク
- 米軍横須賀基地
- 三笠公園(記念艦三笠)
- 金沢文庫
- 県立観音崎公園
- 防衛大学校
- 寺社
- 走水神社
- 城跡
- 玉縄城
- 住吉城
- 浦賀城
- 三崎城
- 衣笠城
- 芦名城
- 漁港
[編集] 歴史
古代の律令制度では、東海道相模国に属する。『日本書紀』には、「御浦」と記されている。
中世には頼朝の挙兵に従った三浦氏の領国であった。三浦氏は北条時頼の時代に宝治合戦で宗家が滅ぼされた。以後半島の北の街道沿いは北条氏の領地となり、北条氏側に付いて三浦の家名を継承した傍系は、半島内に閉じ込められる形となった。後にこの系統は戦国大名化し、扇谷上杉氏の被官となるも、伊豆の北条早雲が相模国に勢力を拡大し、1516年に三浦氏を攻めるために玉縄城を築き、籠城した三浦義同・三浦義意を住吉城から新井城に攻めて滅亡させると、三浦半島は後北条氏の領地となる。戦国時代には三浦半島は後北条氏の水軍の本拠となり、東京湾を挟んで里見氏とが争う。里見義堯は水軍を率いて三浦半島を襲撃し、鎌倉まで攻めて北条氏綱と戦う。江戸時代初期は玉縄を本拠とする本多正信の領地で、幕府直轄の天領である。1600年にヤン・ヨーステンとともにリーフデ号で日本に来航したイギリス人ウィリアム・アダムスは徳川家康の外交顧問となり、三浦半島に領地を貰い、日本名を三浦按針とした。
江戸時代には浦賀の町に廻船問屋が並び、徳川吉宗は浦賀奉行を設置する。後期にはモリソン号やマリナー号など外国船が日本近辺に出現して測量などを行い、鎖国政策を行っている江戸幕府に対して開国を求めるようになり、幕府は江戸湾防備のために会津藩に三浦半島沿岸の警備を命じる。1853年にはマシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に入港し、幕府に通商を迫った。洋式砲術を研究していた幕臣の江川太郎左衛門は三浦半島に砲台を築いて防衛線とする事を提言するが退けられる。
明治後には三浦半島は国防上の要衝地と認知され、横須賀は日露戦争において黄海海戦や日本海海戦で旗艦として活躍した戦艦三笠の本籍地であった。なお三笠は戦後に火災で沈没し除籍となるが、保存工事が施され現在でも三笠公園に保存されている。太平洋戦争の末期には、アメリカ軍の本土上陸に備えて横須賀鎮守府が設置され、沿岸陣地も築かれた。
[編集] 交通
[編集] 幹線道路
[編集] 鉄道
[編集] バス
[編集] 船舶
[編集] 三浦半島を舞台とする作品
- 文学
- 漫画
- ゲーム
- 『トロと休日』ソニー・コンピュータエンタテインメント - 「どこでもいっしょ」シリーズ