上田耕一郎
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上田 耕一郎(うえだ こういちろう1927年3月9日~ )は、昭和、平成期の日本の政治家。日本共産党中央委員会名誉役員。長く参議院議員として活動するとともに、党宣伝局長、政策委員長、副委員長などを歴任した。日本共産党前議長の不破哲三(本名、上田建二郎)は実弟。不破とともに日本共産党を代表する論客で当時の議長宮本顕治を支えた。
1927年(昭和2年)3月9日教育評論家の上田庄三郎の長男として神奈川県茅ヶ崎市に生まれる。1946年(昭和21年)旧制一高在学中に日本共産党に入党する。1951年(昭和26年)東京大学経済学部を卒業する。東大における共産党細胞一期生であり、大学卒業後、中野新報の記者として地域のオルグ活動に取り組み、いわゆる「中野懇談会」を足場に活躍。1956年(昭和31年)『戦後革命論争史』で左派論壇にデビューし、構造改革派とも見なされてきたが、宮本顕治を中心にすすめられた綱領論争の中で第8回党大会で確定した反帝反独占の民主主義革命の現綱領の立場に立ち、かつての著書『戦後革命論争史』を絶版にし、いわゆる「自己批判」し、以後この路線の中心的担い手として活躍した。1973年(昭和48年)には「民主連合政府綱領」を提案し、独自路線を主張する日本共産党幹部の中では、比較的、他党との関係を模索する立場を垣間見せている。その後党中央機関紙しんぶん赤旗編集長、宣伝局長、政策委員長を経て、副委員長を歴任した。
参議院議員を4期務め、1998年(平成10年)政界を引退した。