中ソ国境紛争
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中ソ国境紛争(ちゅうそこっきょうふんそう)とは、中華人民共和国とソビエト連邦の国境問題により生じた紛争のこと。アムール川(中国名は黒竜江)流域の領有権をめぐり、1969年3月2日にアムール川の支流ウスリー川の中州であるダマンスキー島(中国名は珍宝島)で大規模な軍事衝突が発生した。同年8月にも新疆ウイグル自治区で軍事衝突が起こった。かつて蜜月を誇った中国・ソ連の対立が表面化した事件でもあった。
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[編集] 原因
こうした国境紛争は、アイグン条約や北京条約など、19世紀にロシア帝国が清から領土の割譲を受けていた時代に作られた条約に、河川上の国境画定に関して不備な部分が多いことが原因だった。このため中央アジアから極東に至る中ソ国境各地に帰属の不明な部分が多く、中ソ間の見解は一致していなかった。また中国側には、帝国主義の時代に不当に領土が奪われたという被害者意識があり、ソ連側には人口の多い中国に対する恐怖があった。
[編集] 解決への交渉
両国の国境画定への協議や交渉は、1970年代も続けられたが、ソ連を敵とみなし中ソ外交で国境問題を最優先する中国側は有効な成果を得る事ができなかった。1980年代後半、中ソは国境問題を両国関係の最優先課題から外して国境交渉をひそかに再開し、1989年にミハイル・ゴルバチョフ大統領が訪中して中ソ国交が正常化した時期にようやく全面的な国境見直しが始まった。
[編集] 1991年と1994年の合意
ソ連崩壊の直前の1991年5月16日、中ソ国境協定(中露東部国境協定)が結ばれ、極東の大部分の国境が画定し1992年に批准された。特に、それまで双方が管理化にあると主張してきた珍宝島(ダマンスキー島)に関し、島が中国に帰属することが合意された。ロシア連邦は交渉を引き継ぎ、1994年には中央アジア部分に関する中ロ国境協定(中露西部国境協定)が結ばれ1995年10月17日批准され、中ソ国境の最後の54kmが画定した。ソ連から独立した中央アジア諸国と中国との国境協定も個別に結ばれた。
[編集] 2004年の合意
残る未確定地域は、1991年の中露東部国境協定で棚上げにされた、アイグン川の島(ボリショイ島、中国名:阿巴該図島(アバガイト島))とアムール川とウスリー川の合流点の二つの島(タラバーロフ島(中国名:銀龍島)と大ウスリー島(中国名:黒瞎子島、ヘイジャーズ島))であり、合意は困難とされていた。これら三つの島に関する協議も粘り強く進められ、2004年10月14日に最終的な中ロ国境協定が結ばれた。この協定では、アムール・ウスリー合流点部分では、タラバーロフ島の全部と大ウスリー島の半分は中国に、大ウスリー島の残りのハバロフスク市に面する部分はロシアに帰属することとなった。また内モンゴル自治区側のアバガイト島は中国に帰属することとなった。中国の全国人民代表大会の常務委員会は2005年4月27日に批准、ロシア連邦議会の国家院(下院)も続いて2005年5月20日に批准した。批准書の交換は2005年6月2日に完了し、双方の外相が署名を行った。ロシア連邦と中国は、これを以って全ての国境問題は解決したと発表した。
もっとも、双方が領土の主張の一部をあきらめるという痛み分けの結果は、両国の民族主義者にとっては「領土を放棄した」と評判が悪い。
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