京極高詮
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京極高詮(きょうごくたかのり 1352年(正平7年/文和元年)- 1401年(応永8年)))は、守護大名である京極氏の室町時代前期の当主。将軍の足利義満に仕えた。
1352年(正平7年/文和元年)に守護大名である京極高秀の子として生まれる。
1365年(正平20年/貞治4年)、佐々木一門の宗家である六角氏の当主、六角氏頼が唯一の跡取を早世により失ったため、高詮は養嗣子として六角氏に赴く。しかし氏頼は、四年後に新たに亀寿丸(六角満高)をもうけ、その翌年には死去してしまう。このため跡目争いが生じ、高詮は幕府から、亀寿丸が成人するまでの後見役を命じられ、六角氏が代々務めていた近江守護へと任じられる。しかし、わずか7年後の1377年(天授3年/永和3年)に近江守護職を解かれ、高詮は京極氏へと戻る。
1391年(明徳2年)、父が亡くなり家督と飛騨の守護職を継ぐ。またこの年には、全国66ヶ国中11ヶ国の守護を務めていた山名氏が幕府に背く明徳の乱が起こり、その京内野の戦いでの活躍により、翌年には出雲、隠岐の守護へと任ぜられる。
出雲へは甥の持久を守護代として派遣し、その子孫は戦国大名の尼子氏となる。また出雲大社において当時とぎれていた祭事の三月会を復興している。
1395年(応永2年)には侍所の司を務めており、明徳の乱に敗れ京の五条坊門高倉に潜伏していた山名満幸を討つ。この後には出家し京極浄高と名乗っており、主君である義満の出家に従ったとも考えられる。
1399年(応永6年)に大内氏が幕府に背いた応永の乱でも活躍し、1401年(応永8年)出雲、隠岐、飛騨の守護職を子の高光に継がせ亡くなった。
京極氏は高詮の代である1398年(応永5年)に侍所の司を務める四職の一つと定めらている。子には後を継いだ高光、その弟の高数がある。
- 参考史料
- 西讃府史、新修島根県史