会稽
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会稽(かいけい、フイジ、ピン音:Gui Ji)は、中国の揚州東部(長江下流域)に設置されていた郡もしくはその地方の名。六朝時代には政治、文化(六朝文化)の中心地として発展した。その領域は時代によって変遷があるが、現在の中国浙江省紹興市付近がその中心である(後述)。また、同地方にある会稽山の略称として用いられる事もある。本項ではまず会稽山について記述し、次に都市としての会稽および会稽郡について述べる。
[編集] 会稽山とそれを巡る歴史
会稽山(かいけいざん)は現在の中国浙江省紹興市南部に位置するなだらかな山地で、長江流域最古の新石器文化を示す河姆渡遺跡(かぼといせき)がそのふもとにあり、中国史上幾度もその名を見る事ができる。
まず『史記』の夏本紀において、夏王朝の始祖・禹が死去した地であると記されており、現在も禹を奉った禹王廟がある。禹が死去する際、ここに諸侯が一堂に会し、その業績を計ったことから「会稽」という名が生まれたという(稽は計る、という意味)。
次にこの地が登場するのは春秋時代である。この時代、会稽は越の首都として発展していた。当時、呉と越がこの地域において激しく争っていたが、越王勾践は呉王夫差に破れて会稽山に逃げ込み、夫差の下僕になるという屈辱的な条件によって和睦し、助命された話が伝わっている(『史記』の越王勾践世家)。後に勾践は夫差を討って呉を滅ぼすのであるが、この話から、敗戦の恥辱や他人から受けた堪え難いほどの辱めを意味する「会稽の恥」という故事成語が生まれている。
その後、紀元前211年に秦の始皇帝がこの地に行幸したという記録も残っている。また、項羽とその叔父項梁が隠れ住んでいたのも会稽である。彼らはここで秦討伐の軍を起こし、会稽山のふもとにいる盗賊の統領であった于英と桓楚を仲間にひきいれて秦の首都咸陽を目指した。
[編集] 会稽の変遷
前述のように会稽は越などの江東(長江下流域)を地盤とする国家の首都ないしそれに準ずる都市として発展してきたが、会稽郡が設置されたのは秦の時代(紀元前222年)である。当時の会稽郡は、揚州東部の東シナ海沿岸(現在の江蘇省南部および浙江省北部一帯)をその領域とし、呉県(現在の江蘇省蘇州)に治所(政庁の事)が置かれた。
前漢の頃になると拡大され、現在の江蘇省から浙江省、そして福建省までもを含む広大な領域をもつに至った。
しかし後漢・順帝の治世下に北部を分割して呉郡が設置され、呉県はその呉郡の治所となった。これにともない会稽郡の治所は山陰県(現在の浙江省紹興市)へと移された(129年)。
後漢末期、会稽の太守に任じられていたのは王朗である。しかし急速に力をつけてきた孫策に攻められて、遁走。それ以後は孫策が会稽太守を名乗り、三国時代にわたって会稽は呉の中心的な地域となった。この呉の頃になって会稽郡はさらに分割される。すなわち、その南部が臨海郡、建安郡、および東陽郡の三つに分けられ、会稽郡は現在でいう浙江省紹興市付近を領域とする小さな郡となった。
その後、六朝時代の間はこの規模が維持されたが、隋の頃になって郡が廃止され州県制が施行されると、会稽郡は廃止され、越州となった。こうして行政区域としての会稽という名は消えるが、歴史ある会稽と会稽山の名は後世に残り、今もこの地の名物などにその名を見る事ができる(例えば紹興酒の銘柄に会稽山というものがある)。
[編集] 邪馬台国と会稽
なお、魏志倭人伝において邪馬台国の位置を示す記述の中で会稽の名が出てくる。そこでは、邪馬台国は「其の位置は会稽、東冶の正に東」と記されている。