佐々木秀義
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佐々木秀義(ささきひでよし、1112年(天永3年) - 1184年8月26日(元暦元年7月19日))は、平安時代末期の武将。源三とも称した。
近江の佐々木庄を地盤とする佐々木氏の棟梁である佐々木季定の嫡男として生まれる。伯母は藤原秀衡に嫁ぎ、自身は源為義の娘を妻としており、この頃の佐々木氏が有力武士であった事が伺わせる。
1156年(保元元年)に崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱で、秀義は天皇方の源義朝に属して勝利し、佐々木庄で勢力争いをしていた佐々貴山氏に対して優位を得る。
1159年(平治元年)の平治の乱でも義朝に属し、義朝の嫡子である悪源太義平に従い戦うが、義朝方は敗れ、伯母の夫である秀衡を頼って奥州へと落ち延びる途中、相模国の渋谷重国に引き止められ、その庇護を受け娘を娶り五男の義清をもうける。
1180年(治承4年)に源頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると、子の定綱、経高、盛綱、高綱を頼朝に従わせ、その功により本領を安堵され、佐々木庄へと戻る。
1184年(元暦元年)、平家の残党と甲賀郡上野村で戦い90余人を討った後、戦死した。享年73。死後、その功により近江権守を贈られる。