前田玄以
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前田 玄以(まえだ げんい、天文8年(1539年) - 慶長7年5月20日(1602年7月9日))は安土桃山時代の大名、豊臣政権における五奉行の1人である。父は前田基光。正室は村井貞勝の娘。子に前田茂勝。名は「基勝」、のちに「宗向」。徳善院、半夢斎、民部卿法印。
美濃国(岐阜県)に生まれる。比叡山延暦寺の僧侶で、織田信長に仕える。1582年(天正10)の本能寺の変の後は織田信雄、豊臣秀吉に仕える。豊臣政権において京都奉行、寺社奉行を務め、秀吉の小田原征伐、朝鮮出兵では兵糧奉行として石田三成とともに活躍した。秀吉死後の1600年(慶長5)石田三成は五大老の徳川家康が上杉景勝討伐のために出兵している最中に大坂で挙兵すると、自身は秀吉の子・豊臣秀頼の後見人を申し出て大坂に残った。関ヶ原の戦いの12日前、「徳川家康と石田三成の戦いは徳川家康が勝つ」といった。また、玄以は家康討伐の紙に署名したにもかかわらず、家康に三成の挙兵を知らせた。このことから、玄以は何らかのことにかかわっていたという説もある。関ヶ原の戦い後、丹波亀山の本領を安堵された。1602年に没、享年63。
同じ五奉行の増田長盛が同じく大坂城に留守居役として残り、大坂方(西軍)の情報を提供して家康に内通したにもかかわらず、関ヶ原の戦い後に所領を没収され改易されたのとは対照的である。玄以の持つ、朝廷とのパイプを利用する為に優遇したものと思われる。