北方戦争における諸条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
本項では北方戦争におけるスウェーデンと各国間との諸条約を挙げる。
デンマークは、スウェーデン王カール10世が敢行した氷上侵攻に屈服し、戦意を喪失して降伏した。
これによって、スウェーデンの領土は史上最大となった。
1660年にスウェーデン王カール10世が死ぬと、イングランド、フランス王国、ネーデルラント連邦共和国が仲介に入り、北方戦争終結に向けて戦争当事者間で講和条約が結ばれた。
- オリヴァー条約 ― スウェーデン・ポーランド間(1660年4月23日)
- スウェーデン、ポーランド王国間の戦争終結。
- ポーランドはスウェーデンへの王位要求権を放棄。
- リヴォニアのスウェーデン領の確定。
- ブランデンブルク=プロイセンとハプスブルク家のポンメルンからの撤退の合意。
- コペンハーゲン条約 ― スウェーデン・デンマーク間(1660年5月27日)
- スウェーデン、デンマーク間の戦争の終結。
- スウェーデンはトロンヘイム地方及びボーンホルム島をデンマークに返還。
- デンマーク海軍のバルト海でのスウェーデンに対する示威行為の禁止。
- カディス条約 ― スウェーデン・ロシア間(1661年6月21日)
- スウェーデンとロシア帝国間の戦争の終結。
- ロシアのバルト海沿岸からの撤退。
1655年から続くスウェーデンを環とした北方戦争は、ロシアとの講和を最後にして収束し、スウェーデンのバルト海制覇、つまり北方の覇権を完璧なものとしたが、北東ヨーロッパのヘゲモニーを完全に覆すものではなかった。特にポーランドの弱体化は、東欧に新たな火種を残すこととなった。ロシアはポーランドとの戦争を再開し、デンマークではスウェーデンの脅威は完全に去ったが、国内の安定化を図り、絶対主義を開始した。また、北東ヨーロッパの熾烈な覇権争いの狭間で、ブランデンブルク=プロイセンはこの間隙を縫って自立に成功した。全ての強国のくびきから脱したプロイセンは、大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの元で、18世紀以降のプロイセン王国の強大化の基礎を築いたのである。