古尓王
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古尓王 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 고이왕 |
漢字: | 古爾王 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
こにおう |
片仮名: (現地語読み仮名): |
コイワン |
ラテン文字転写: | Goi-wang |
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古尓王(こにおう、生年未詳 - 286年)は百済の第8代の王(在位:234年 - 286年)であり、第4代の蓋婁王の第二子であり、第5代肖古王の弟にあたる。諱・諡は伝わっていない。234年、第6代の仇首王が薨去した際、その長子である沙伴王がいったん王位についたが、幼少であったため政務を執ることができず、肖古王の王弟の古尓王が王位を継いだ。
4)蓋婁王┳5)肖古王━━6)仇首王━━7)沙伴王 ┃ ┗8)古尓王
目次 |
[編集] 治世
[編集] 外征
たびたび新羅と争い、また使者を送って和親を果たそうとした。新羅との交戦の中心となったのは、槐谷(忠清北道槐山郡)・烽山(慶尚北道栄州市)であった。246年8月に魏の毋丘倹が高句麗に攻め入った際には、高句麗の楽浪郡の辺境に攻め入って住民を略奪させたが、魏軍が矛先を転じるのを恐れ、略奪した人民を放棄した。また、靺鞨からは258年に酋長の羅渇からの供物献上を受け入れ、その使者を厚くねぎらうという一件もあった。
[編集] 内政
262年、官人の収賄者や盗人を取り締まることについて、得たものの三倍の徴収と終身禁固刑とを以て当たるとする布告をした。
[編集] 官位の整備
『三国史記』によれば、古尓王の27年(260年)のこととして、六佐平(各種事務の担当長官)を定めたとされている。また、佐平を一品官とし、以下十五段階の官とあわせて十六品からなる官位の整備を行った。
- 佐平(さへい、チァピョン)・・・一品官。その担当する職務によって、6種類に規定される。
- 内臣佐平・・・宣納(王命の伝達)の担当
- 内頭佐平・・・庫蔵(財政)の担当
- 内法佐平・・・礼儀(儀式)の担当
- 衛士佐平・・・宿衛兵(王の禁軍、近衛兵)の担当
- 朝廷佐平・・・刑獄(司法)の担当
- 兵官佐平・・・外兵馬(対外軍事)の担当
- 達率(たつそつ、タルソル)・・・二品官
- 恩率(おんそつ、オンソル)・・・三品官
- 徳率(とくそつ、トクソル)・・・四品官
- 扞率(かんそつ、カンソル)・・・五品官
- 奈率(なそつ、ナソル)・・・六品官
- 将徳(しょうとく、サンドク)・・・七品官
- 施徳(しとく、シドク)・・・八品官
- 固徳(ことく、コドク)・・・九品官
- 季徳(きとく、キドク)・・・十品官
- 対徳(たいとく、テドク)・・・十一品官
- 文督(ぶんとく、ムンドク)・・・十二品官
- 武督(ぶとく、ムドク)・・・十三品官
- 佐軍(さぐん、チァグン)・・・十四品官
- 振武(しんぶ、チンム)・・・十五品官
- 克虞(こくぐ、クンニョ)・・・十六品官
これらの官位に応じ、六品以上は紫の服に銀の花の冠、十一品以上は緋色の服、十六品以上は青色の服を着用するよう、合わせて布告したという。
- 実際に佐平制の雛形が整ったのは第15代枕流王(在位384年-385年)の頃と考えられている。また、『周書』百済伝には、佐平(左平)は五人とし、各官職の帯の色(七品は紫帯、八品は皂帯、九品は赤帯、十品は青帯、十一品・十二品は黄帯、十三品以下は白帯)とし、三品以下は定員がなかったと伝えている。
[編集] 薨去
286年11月、薨去した。
[編集] 参考文献
- 『三国史記』第2巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫425〉、1983 ISBN 4-582-80425-X
- 『朝鮮史』 武田幸男編、山川出版社<新版世界各国史2>、2000 ISBN 4-634-41320-5