四條畷の戦い
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四條畷の戦い(しじょうなわてのたたかい)は、南北朝時代の1348年(正平3年/貞和4年)1月5日、河内国四條畷(現在の大阪府四條畷市・大東市)において、南朝方の楠木正行率いる約3千騎と、足利尊氏の腹心である高師直率いる約6万(8万とも)の軍勢が戦った合戦である。
[編集] 経過
1336年(延元元年/建武3年)、正行の父楠木正成が湊川の戦いで敗死してから、楠木氏はしばらくの間鳴りを潜めていたが、本拠地である河内国南部で次第に力を蓄え、摂津国南部の住吉、天王寺周辺までゲリラ的に出没し、足利方を脅かすようになった。そこで、足利方は本格的な南朝攻撃を決意し、ついに1348年1月に高師直を大将とする大軍を編成して、北上する楠木軍と四條畷に対峙した。
楠木軍は足利方の圧倒的な兵力の前に敗れ、正行は弟の正時と刺し違えて自決した。勢いに乗った高師直は、南朝の本拠吉野(奈良県吉野郡吉野町)に攻め入り陥落させ、後村上天皇はじめ南朝は賀名生(同県五條市)に逃れた。以後、楠木氏は楠木正儀が後を継ぎ、南朝の支柱として戦った。
『太平記』では、楠木軍が少数の兵で突撃し、あと一歩で師直の首を取るところまで迫ったように描かれているが、実際には兵力の差は歴然で、楠木軍の惨敗だったようである。