堀尾吉晴
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堀尾 吉晴(ほりお よしはる)は安土桃山時代から江戸時代初期の武将・大名。豊臣政権三中老の一人。出雲松江藩の初代藩主。
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時代 | 戦国時代から江戸時代前期 | |||
生誕 | 天文12年(1548年) | |||
死没 | 慶長16年6月17日(1611年7月26日) | |||
別名 | 仁王丸、小太郎(幼名)、茂助(通称)、 可晴、吉定、吉直(別名) |
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戒名 | 法雲院殿前楓松庭世栢大居士 円成院高堅世肖居士 |
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官位 | 正五位下、従四位下、帯刀 | |||
藩 | 出雲松江藩主 | |||
氏族 | 堀尾氏 | |||
父母 | 父:堀尾泰晴 | |||
兄弟 | 堀尾吉晴、堀尾氏光 | |||
妻 | 正室:津田氏の娘(大方殿) | |||
子 | 堀尾金助、堀尾忠氏、堀尾氏泰、 娘(石川忠総室)、娘(堀尾因幡室)、 娘(野々村河内室)、娘(池田備中守室)、 娘(平井権左衛門室)、 娘(蒲生弥五右衛門室) |
- 通称は茂助。官位は従四位下、帯刀先生。
- 正室は津田氏の娘子には堀尾忠氏、堀尾氏泰(堀尾宗十郎の父と目される)と娘二人。弟に堀尾氏光がいる。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 織田時代
天文13年(1544年)、尾張国丹羽郡御供所村(現在の愛知県丹羽郡大口町豊田)の土豪である堀尾泰晴(吉久、泰時)の長男として生まれた。父は岩倉織田氏の重職にあり、同じく岩倉織田氏に仕えた山内盛豊(山内一豊の父)とともに連署した文書が残っている。
ところがこのころ、岩倉織田氏自体が、傍流の織田氏である織田信長に圧迫され、危険な状態にあった。吉晴は16歳のときである永禄2年(1559年)、岩倉城の戦いで初陣し、一番首を取ったが、この戦いで岩倉織田氏は滅亡し、吉晴は浪人になってしまった。その後、尾張を統一した織田信長に仕えたが、間もなく信長の下で台頭していた家臣・木下秀吉(豊臣秀吉)の家臣となった。
その後は秀吉に従って各地を転戦した。永禄10年(1567年)の織田信長による稲葉山城攻めでは、織田軍の稲葉山城に通じる裏道の道案内役を務めたと言われている。天正元年(1573年)には秀吉から近江長浜の内に100石を与えられた。
[編集] 豊臣時代
その後も秀吉に従って武功を挙げたことから、播磨姫路において1500石、後に丹波黒江において3500石に加増された。
天正10年(1582年)の備中高松城攻めでは敵将であった清水宗治の検死役を務め、6月の山崎の戦いでは天王山争奪の際に敵将を討ち取るという功績を挙げた。この抜群の功績で、丹波氷上郡内で6284石に加増された。天正11年(1583年)には若狭高浜において1万7000石に加増され、天正12年(1584年)には2万石に加増された。天正13年(1585年)には田中吉政・中村一氏・山内一豊・一柳直末らとともに豊臣秀次付の宿老に任命され、近江国佐和山(滋賀県彦根市周辺)に4万石を与えられている。
天正15年(1587年)の九州征伐にも従軍した。その後、正五位下、帯刀先生に叙任された。天正18年(1590年)、小田原の役では山中城攻めに従事して活躍した。しかしこの役の途中でともに出陣した嫡子・金助が戦傷死している。これらの戦功を賞されて、秀吉から遠江国浜松に12万石を与えられ、豊臣姓を名乗ることも許された。
秀吉の晩年には、中村一氏や生駒親正らと共に中老に任命され、豊臣政権に参与した。
[編集] 関ヶ原
慶長3年(1598年)の秀吉死後は、徳川家康に接近したが、老齢を理由に慶長4年(1599年)10月、家督を次男の忠氏に譲って隠居した。このとき、家康から越前府中に5万石を隠居料として与えられている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。本戦直前の7月、水野忠重、加賀井重望らと三河国池鯉鮒(愛知県知立市)において宴会中、美濃国加賀井城主・加賀井重望が三河刈谷城主・水野忠重を殺害したため、重望を討った。重望は西軍に通じていたとされている。しかし重望のために槍傷を負い、吉晴は負傷した。このため9月の本戦には参加できなかった。しかし重望を討った功績や、息子の忠氏が本戦に参加して武功を挙げたことを賞されて、戦後に家康から出雲富田24万石に加増移封された。
なお、吉晴は密かに近江、北国の情勢を家康に報せていたともされている。
[編集] 江戸時代
慶長9年(1604年)、後を継いでいた息子の忠氏が早世すると、家督は孫の堀尾忠晴が継ぐこととなったが、忠晴はまだ9歳という幼年だったため、その後見役として死ぬまで執政に当たった。
慶長16年(1611年)、松江城を建造し松江に本拠を移したが、間もなく6月17日に死去した。享年68。
[編集] 子孫
寛永10年(1633年)、堀尾忠晴が死去する。忠晴には嗣子が無く、松江藩の堀尾氏は3代で改易となったが、吉晴の子孫は肥後細川家に仕えて名跡を存続させた。
[編集] 墓所
- 奉斎神社:松江市殿町鎮座の松江神社に主祭神として祀る。
[編集] 人物
- 戦場では勇猛さを見せつける勇将であったが、温和な性格で人望を得ていた。このため、「仏の茂助」と称された。
- 吉晴は実際には藩主になっていないが、忠氏時代には忠氏と二元政治を行ない、忠晴時代には若年の忠晴に代わって政務を代行していたことから、松江藩の初代藩主として見なされることが多い。
- 温和な性格だけではなく、秀吉の家臣団の中でも尾張時代から仕えていた最古参の重臣であったことからその影響力も大きく、家康と石田三成の対立を仲介したこともあったという。
- 堀尾氏(松江藩初代)藩主
- (1600)~(1611)
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- 先代:
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- 次代:
- 堀尾忠氏