堀直之
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堀直之(ほりなおゆき、天正12年(1584年) - 寛永19年(1642年))は江戸時代の旗本で、椎谷堀家の初代。直之の代は禄高九千五百石で、大名ではないが、後の代になり、蒲原の所領を天領として上知し、上総国の飛び地を整理し、椎谷藩を一藩として立藩させる処置がおこなわれ、大名家の椎谷堀家が誕生する。越前国北ノ庄に生まれる。堀直政の五男。兄に堀直清(堀直次)、堀直寄、堀直重。母は宮川秀定の娘で、後の自性院。字は佐太郎、主計助、三右衛門。冠位は従五位下、式部少輔。
[編集] 秀忠に仕え、大阪の役へ
慶長3年(1598年)、父と共に越後に入り、堀秀治より八千石を給される。慶長15年(1610年)堀家が除封されると一時兄の直寄のもとへ身を寄せ、翌年、はじめて台徳院(徳川秀忠)に拝謁し、御書院番の士となり、食禄三百俵を賜る。慶長19年(1614年)、大阪冬の陣では、兄直寄に属して戦い、先鋒を務めた。翌年の大阪夏の陣では、再び直寄の先鋒をつとめ、道明寺口の合戦で薄田兼相を討ち取る。のちに兼相の母より、このときの敵将が薄田兼相であると伝えられ、懇ろに菩提を弔ったといわれる。天王寺の戦いでは、真田幸村、毛利勝永の軍に押され、直之を殿軍として後退を始めたが、直之の奮戦により、盛り返す。敵中に深く入り込み、手傷を負い、疲労も極限に達し、自刃を覚悟したが、敵の一角が崩れ、家臣たちが突入してきた。「われ鬼籍をまぬがれたり」と叫び、さらに奮戦した。この軍功により、武蔵国八幡山に千石を賜り、御使番に列せられた。翌年、越後国椎谷に五千石の加増転封となる。さらに新田五百石加え、五千五百石となる。(『寛政重修諸家譜』には沼垂郡に五千石賜ったとある。沼垂町は新発田藩の領内であるし、刈羽郡の椎谷からは遠いので、蒲原平野のどこかに飛び地で領土があったのかもしれない。)
「十九年大坂の役に直寄が手に属して供奉し、元和元年の御陣五月六日道明寺口の合戦に甲首一級をうちとり、七日天王寺表のたたかひに小返の功あり、」(『寛政重修諸家譜』)
[編集] 超願寺陣屋、江戸町奉行
椎谷の地、刈羽郡妙法寺村には、上杉謙信の家臣斎藤朝信の寄進による超願寺があり、織田家の三将の一人と謳われ、父直政の友人であった加賀小松城主戸次左近将監が、出家して法順と号し超願寺の住職となっていた。直之は二代目の慶順と親交があり、大阪の役の前にこの寺を訪れ「軍功を挙げ、かならず応分の寄進をいたす」旨を約して出陣していた。椎谷五千石を領した後、寺領の安堵をした。三代目直良のときに陣屋が移されるまで、超願寺が陣屋となっていた。
元和6年(1620年)、大坂城修復の監使を命ぜられる。寛永3年(1626年)、大猷院(徳川家光)が上洛する際、御供をする。寛永4年(1627年)4月、佐渡島の監使を務める。12月、従五位下式部少輔に叙任。
寛永8年(1631年)、江戸町奉行となる。翌9年には加賀爪忠澄も江戸町奉行に任じられる。江戸町奉行は二人制の月番交代制。直之は呉服橋に役宅を賜り、北町奉行と呼ばれ、忠澄は常盤橋に役宅を賜り、南町奉行と呼ばれた。北町、南町は管轄の地域でなく、役宅の位置からきた呼び名である。
寛永10年(1633年)、上総国夷隅、長柄、市原、埴生四郡のうち四千石を加増され、九千五百石となり、夷隅郡苅谷に陣屋を設ける。同12年、小田原城主稲葉正勝が病のため、代わって直之が小田原城の普請奉行を任じられる。正勝は春日局の長男で、直之の妻は春日局の姪だったための縁でこの仕事が回って来たものと思われる。寛永15年、江戸町奉行を辞任。同17年、寺社奉行に就任。この年の10月18日、母自性院が76歳で亡くなる。寺社奉行の母ということで葬儀が盛大に行われたという。駒込の養源寺に埋葬される。養源寺は稲葉家の菩提寺で稲葉正勝が創建、直之も縁者であるため私財を寄進し、堀家の菩提寺とした。他にも堀江家、松平家などの墓所があり、後世の人は駒込の大名寺と呼んだという。
寛永19年、58歳で没。本光院殿圓成宗覚居士と追号を受け、養源寺に埋葬された。
[編集] 参考文献
- 『寛政重修諸家譜』 巻第七百六十六
- 『堀家の歴史』 堀直敬著 堀家の歴史研究会 1967