大内政弘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大内 政弘(おおうち まさひろ、文安3年(1446年) - 明応4年9月18日(1495年10月6日))は、室町時代の守護大名である。周防国・長門国・豊前国・筑前国を領有した。父は大内教弘で嫡男。子に大内義興、大内隆弘。名は太郎、亀童丸。官位は従四位上。左京大夫。
1465年(寛正6)に家督を相続する。日明貿易(勘合貿易)をめぐり管領家の細川氏と争い、細川氏と敵対する伊予の河野氏を後援する。応仁の乱では西軍山名持豊(宗全)に加担して畿内各地を転戦し、京都での戦闘中に領国で叔父の大内教幸が挙兵するが、家臣の陶氏により鎮圧される。乱が収束すると1477年(文明9)に帰国する。乱後に安堵された、周防・長門のほか安芸・石見の一部を安堵され、少弐氏と争い豊前・筑前を得る。安芸、石見の豪族や国人らを臣従させ、北九州や内海の海賊衆を平定するなどをして戦国大名化に勤める。9代将軍足利義尚が行った近江国の六角氏討伐には代理を出兵させ、1480年(文明12)には相伴衆となる。1491年(延徳9)には上洛し、10代将軍足利義稙に従い六角氏平定に従軍する。1495年に死去、享年51。政弘は領国経営に務めて、以後大内氏は戦国大名化する。
文化的関心も示し、和歌・連歌を行い、一条兼良とも交流した。歌集に『拾塵和歌集』。また、雪舟や宗祇などの文化人を山口に保護した。