大田原綱清
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大田原 綱清(おおたわら つなきよ、1538年(天文7年) - 1589年(天正17年))は、戦国時代の武将。下野国・那須氏の家臣。大田原資清の三男で、大関高増の弟。大田原晴清・大田原増清の父。
兄が二人いたが、長兄の大関高増は大関氏、次兄の福原資孝は福原氏へ養子として出たため、永禄3年(1560年)に父が死んだとき、大田原氏の家督を継ぐ事となった。しばしば、大関氏ら上那須衆と共に、主家那須氏と対立したが、永禄11年(1568年)に和睦が成立すると、那須七党大田原氏の当主として、宇都宮氏をはじめとする周辺勢力と戦い、主家の那須氏を盛り立てた。しかし、天正13年(1586年)、大関高増・福原資孝と図り、千本資俊・千本資政父子を謀殺し、その遺領を三人で分け合うなど、傍若無人の振る舞いも見せている。