大般涅槃経
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基本教義 |
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縁起、四諦、八正道 |
三法印、四法印 |
諸行無常、諸法無我 |
涅槃寂静、一切皆苦 |
人物 |
釈迦、十大弟子、龍樹 |
如来・菩薩 |
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部派・宗派 |
原始仏教、上座部、大乗 |
地域別仏教 |
経典 |
聖地 |
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ウィキポータル |
大般涅槃経 (だいはつねはんぎょう、mahaaparinirvaaNasuutra महापरिनिर्वाणसूत्र(sanskrit)、Mahaaparinibbaana-suttanta महापरिनिब्बानसुत्तन्त(pali))、mahǎprinípphaanásùttantà มหาปรินิพพานสุตตันตะ(Thai Language)。略称として涅槃経。
釈迦の入滅(=大般涅槃(だいはつねはん))を叙述し、その意義を説く経典類の総称であり、阿含経典類から大乗経典まで数種ある。大乗の涅槃経 は、初期の涅槃経 のあらすじは同じだが、趣旨が異なるので特に相互を混同してはならない。
パーリ語で書かれた上座部経典長部に属する第16経が大般涅槃経 と同じものである。漢訳の、長阿含第2経遊行経 および仏般泥洹経 (2巻)、般泥洹経 (2巻)、大般涅槃経 (3巻)がこれに相当する。釈尊の晩年から入滅、さらに入滅後の舎利の分配などが詳しく書かれている。
これらに基づいて大乗仏教の思想を述べた大般涅槃経 という大部の経典もある。
[編集] 初期仏教の涅槃経
初期仏教中で、釈尊の最後の旅からはじまって、入滅に至る経過、荼毘(だび)と起塔について叙述する経典で、パーリ聖典『長部』に属する。元来は律蔵 中の仏伝の一部であったと考えられている。この中では、釈尊が、自分の死後は「法を依(よ)りどころとし、自らを依りどころとせよ」(自灯明・法灯明)といったこと、また「すべてのものはやがて滅びるものである。汝等は怠らず努めなさい」と諭したことなどが重要である。
[編集] 遺教経
大乗に至る過渡期のものとして、数種の涅槃経が漢訳として現存する。たとえば遺教経(ゆいきようぎよう、鳩摩羅什訳、仏垂般涅槃略説教誡経)では、遺言のうちで、仏の肉身は滅びても法身は常住であると説くが、この〈法身〉は、仏の教えの集まりの意と解される。
[編集] 大乗の涅槃経
大乗の大般涅槃経 では、曇無讖(どんむしん)訳の40巻本〔北本〕(421)、宋の慧厳らの加筆した再治本36巻〔南本〕(436)、法顕(ほっけん)訳の泥洹経(ないおんぎょう)6巻(418)がある。他にチベット訳2種、梵文断片などが現存している。
この経典は、釈迦の入滅という同じ場面を舞台にとりながら、如来の般涅槃(はつねはん)は方便であり、実は如来は常住で不変だとして、如来の法身(ほっしん)の不滅性を主張し、その徳性を常楽我浄の四波羅蜜に見いだし、「一切衆生はことごとく仏性を有する」(一切衆生悉有仏性)と宣言する。この経は、法華経 の一乗思想を受け入れ、仏性思想によってそれを発展させた。この仏性は、別の経典では如来蔵(にょらいぞう)ともいう。
また、法華経 同様、大乗を誹謗(ひほう)するものに対して厳しい姿勢をとり、これを「一闡堤(いっせんだい)」(icchantika、欲望よりなる者)と呼び、仏となる可能性をもたないとする。しかし、後の増広部分(法顕訳にない北本の第11巻以下)ではその主張を緩和し、方便説とする。
龍樹(ナーガールジュナ:紀元150年頃に活躍し中観派を確立した古代インドの高僧)には知られていないことなどから、この経の編纂には瑜伽行唯識派が関与したとされ、4世紀くらいの成立と考えられる。