奥州仕置
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奥州仕置(おうしゅうしおき)とは、天正18年(1590年)7月から8月にかけて行なわれた豊臣秀吉による東北地方に対する仕置のこと。
[編集] 奥州仕置について
秀吉は下野国司の宇都宮国綱、常陸国守護大名の佐竹義重とともに小田原征伐を行い、天正18年7月11日、北条氏政・北条氏照兄弟が自害し、北条氏直が高野山に流罪に処された。これにより後北条氏は滅亡した。
秀吉は7月17日、国綱や参陣した伊達政宗とともに宇都宮城に向かい、7月26日、宇都宮城に入場しここで奥州大名に対する仕置を行った(宇都宮仕置)。この翌日には陸奥北部の南部信直(清和源氏義光流)に対して陸奥北部7郡の所領を安堵した。8月1日には佐竹義重に対して常陸54万石の所領を安堵している。この仕置で政宗から召し上げた会津を与えられた蒲生氏郷を筆頭とする奥州仕置軍は、政宗の案内により8月6日に白河に到着、その後抵抗した葛西氏を退けながら8月9日には会津黒川(現在の会津若松)に入り、秀吉の天下平定の総仕上げが完了した。
奥州仕置の内容は次の通りである。
- 減封→伊達政宗。(前年に摺上原の戦いで蘆名盛重を破って、奥州に150万石近い大領国を築いていたが、その経緯が秀吉が出した惣無事令に違反していたこと、政宗自身が小田原征伐に遅参したことなどから、会津3郡を没収され、陸奥南部の13郡、およそ60万石に減封された)。
[編集] 影響
奥州仕置により、豊臣秀吉の天下統一は遂に完成した。しかし、この仕置は後に悪影響を与えた。例えば、秀吉が新たに大名とした木村吉清は支配体制の強化を進める過程で、後に改易された葛西氏・大崎氏の旧臣が中心となって起こした葛西大崎一揆の一因を成した。さらに、大幅に所領を減らされ、その上一揆後は転封された伊達政宗は、秀吉と、秀吉の臣として伊達政宗を詰問した石田三成に対して大いに不満を抱くこととなり、後に起こった関ヶ原の戦いで豊臣氏(西軍)から離反し、東軍につかせる一因を成したと言えるのである。