姉小路家
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姉小路家(あねがこうじけ/あねこうじけ)は、藤原氏系の公家の家系である。大きく分けると閑院流(1・2)、小一条流(3:飛騨国司)、勧修寺流(4)の3つの家系がある。 なお、3.の姉小路家の名跡を継承した戦国大名(旧宇多源氏三木氏)については、姉小路氏の項目で解説を行う。
- 閑院流(藤原公季の子孫)三条公教の子、三条公宣が京の姉小路に居を構えた事に由来する。家格は羽林家。6代目の姉小路実広が南朝に従って没落する。
- 同じく閑院流阿野実顕の子、阿野公景が慶長18年(1613年)に新たな姉小路家を起こす(ちなみに阿野家も1.の姉小路家共々南朝方について一度は没落したが、後に勢力を回復させた家系である)。家格は羽林家。当初は1.とは無関係に存在していたが、宝暦9年(1759年)に時の桃園天皇の命により、1.の祭祀を引き継ぐ事になった。
幕末の姉小路公知とその叔父で澤家を継いだ澤宣嘉は著名である。明治維新後に伯爵となる。 - 小一条流藤原師尹の子である藤原済時が京の姉小路に居を構えた事から、子孫が姉小路を称する事となった。建武の新政で飛騨国司に任じられた参議姉小路高基が下向した事から、以後代々飛騨国司家とされた。だが、室町幕府の派遣した守護京極氏に敗れ、一族自体も小島家(宗家)と古河家・向小島家に分裂した。
その後、古河家の姉小路基嗣・済継が小島家を圧倒して宗家の地位を奪うが、息子に先立たれた済継が死亡すると、同家は断絶状態となる。これを利用した京極氏の家臣・三木良頼が姉小路の名跡継承を朝廷に認めさせた。これが戦国大名・姉小路氏である。なお、没落した小島家も小島時光の代に三木(姉小路)頼綱の息子を養子に迎えて臣従した。時光は後に頼綱とともに、羽柴秀吉の命を受けた金森長近の軍と戦って攻め滅ぼされてしまい、姉小路家は名実ともに滅亡した。 - 勧修寺流藤原宣孝(紫式部の夫)から数えて7代目にあたる鎌倉時代の廷臣・藤原宗隆の子孫である姉小路宗方(宗隆の子)・顕朝・忠方の3代がいるが、早いうちに没落している。