宮本顕治
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宮本 顕治(みやもと けんじ、1908年10月17日 - )は、山口県光市上島田出身の日本の文芸評論家、政治家、元参議院議員。日本共産党の元中央委員会議長で、2000年11月からは名誉役員。
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[編集] 経歴
徳山中学校(旧制)から松山高等学校に進学、社会科学研究会を創立し、文芸誌『白亜紀』を発行するなどの活動をおこなった。
東大在学中の1929年8月、芥川龍之介を論じた「『敗北』の文学」で雑誌『改造』の懸賞論文に当選し、文壇にデビュー。1931年3月、東京帝国大学経済学部卒業。
1931年5月、日本共産党に入党し、日本プロレタリア作家同盟に加盟。 その後、党の中央アジテーション・プロパガンダ部員に就任。 1932年2月、作家・中條百合子と結婚。 1932年3月から4月にかけてのプロレタリア文学運動への弾圧をきっかけに、いわゆる地下活動にはいる。その中で1933年1月、中央アジ・プロ部長に就任。 4月、中央委員候補になり、5月、野呂栄太郎の最高指導者就任に伴い中央委員に昇格。また、野沢徹などの変名をつかって、プロレタリア文学運動の理論問題の論文を発表した。
1933年12月26日、街頭連絡中に逮捕されるが、警察の取調べには黙秘を貫く。その間に、警察は逮捕されたほかの人間の取調べからアジトを突き止め捜索したところ、床下より小畑の死体を発見した。検察は〈1933年12月23日~24日に東京 幡ヶ谷の隠れ家で、袴田里見、逸見重雄、秋笹正之輔、木島隆明の4人と共に、大泉兼蔵と小畑達夫の両中央委員をスパイ容疑で査問。大泉にスパイであることを自白させたが、小畑は認めなかったため、その際リンチを加え、「硫酸をかけるぞ」と脅したり、馬乗りになったり、針金で縛るなどの凄惨なるリンチを加え続け、ついに小畑を死亡させた〉として、治安維持法違反、殺人、不法監禁、死体遺棄などの罪で起訴した。(共産党は、小畑の死因は「特異体質による内因性の急性ショック死」であり、査問時に暴力をふるったことはなく、事件はでっち上げと主張している。一方、同事件で共に有罪となった袴田里見は、共産党除名後の1978年に、週刊新潮誌上において小畑に暴行を加えて死亡させたと主張した。なお、小畑達夫はスパイではなかったことが後に判明している)。
1934年12月、市ヶ谷刑務所未決監に移監。 同月、百合子と入籍。
宮本の病気のため裁判の開始が遅れ、1940年に公判が始まり、1944年12月5日、東京地裁は殺意は否定したものの小畑の死因はリンチによる外傷性ショック死であるとして、傷害致死、死体遺棄、治安維持法違反などにより無期懲役の有罪とした。1945年5月に大審院で上告棄却され無期懲役の判決確定(戦時特例により控訴審は無し)。6月、網走刑務所に収監されたが、すぐに終戦となる。
10月4日、GHQの指令「政治的市民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」が出され、これを受けて10月5日に司法省は政治犯の釈放を命じる。 政治犯釈放を翌日に控えた10月9日に出獄(これを見た仙台に収監されていた袴田も出獄を要求し19日に出獄)。 10月17日、勅令第580号勅令第580号(減刑令)により懲役20年に減刑。 1947年、刑の執行停止状態に気づいた東京検事局が出頭を要求してきたため、抗議して5月29日付で昭和20年勅令第730号(政治犯人等ノ資格回復ニ関スル件)に基づく復権証明書を発行させた。共産党側は、この復権により一般刑法犯の有罪判決も治安維持法違反の一環としてなされた不当判決であり、無実であることが証明されたとしている。
しかし、宮本が釈放され、復権証明書が発行されたことに対して、上記GHQ指令とそれを受けた司法省の政治犯釈放命令および復権は、純粋な政治犯に適用されるものであって、治安維持法違反とともに傷害致死罪など一般刑法犯でも有罪とされた宮本は本来は対象外のはずであるとの指摘があり、いわゆる復権問題(法的に刑期が残っているとすれば公民権は回復されていないことになる)として、スパイリンチ査問事件の存否とともに、1975年末に『文藝春秋』誌上で連載が開始された立花隆の『日本共産党の研究』で指摘があり、1976年には当時の民社党の春日一幸によって国会で取り上げられた(春日違憲質問)。(後述)
1951年1月21日、百合子が死去(51歳)。没後岩崎書店から刊行された『宮本百合子全集』の解説を書き、それをその後、単行本『宮本百合子の世界』にまとめた。この本は、現在でも百合子研究史上重要な位置を占めるものとされている。また、獄中にいたころの百合子との往復書簡を『十二年の手紙』として刊行した。後に作家の渡辺淳一が、この書簡集を、愛の記録として高く評価している。1954年には、『新日本文学』誌上で大西巨人と、野間宏の作品『真空地帯』の評価や新日本文学会の組織問題をめぐって論争するなど、1950年代前半は文芸評論家としての活躍が目立っていた。
1950年コミンフォルムによる日本共産党への批判に対する態度をめぐって、党が所感派と国際派とに分裂、宮本は国際派のリーダー的存在となる。数の上では所感派が圧倒的多数であったが、その武装闘争方針が国民の支持を失わせる端緒となり、衆議院での議席消滅やレッドパージにつながる。1955年3月、中央指導部員に就任。 7月、六全協第1回中央委員会総会で中央機関紙編集委員に任命。 8月、常任幹部会で責任者に就任。 1958年8月、第7回大会1中総で、書記長に選出された。この国際派の勝利により、党史の上では、所感派が分派となる。 1970年7月、第11回大会1中総で中央委員会幹部会委員長に選出。
1974年6月26日、民社党の春日一幸委員長は『毎日新聞』の参議院選挙取材で、スパイ査問事件を取り上げ、宮本はスパイをリンチで殺したと主張。選挙の共産党批判に使った。共産党は「スパイは特異体質により死亡したもの」と抗議した。1975年12月10日発売の『文藝春秋』1976年1月号で、立花隆もまた、スパイはリンチで殺されたと主張した。1976年、春日はこれを国会で取り上げ、再び両党の争いとなった。1月30日、民社党の塚本三郎の質問に対し、稻葉修法相はリンチ殺人を認めた。『文藝春秋』はさらに3月号で、鬼頭史郎判事補により違法コピーされた「刑執行停止上申書」と「診断書」を掲載した。一方、共産党側も、新日本出版社から『宮本顕治公判記録』(ISBN 4-406-00408-4)を出版し、裁判の実態を明らかにした。
自由民主党は民社党と共同でリンチ殺人事件を追及した。しかし、他の野党は、春日が治安維持法を自明の存在として宮本を非難したことから、春日がこの事件にかこつけて言論弾圧を推進していると警戒した。そのため、野党もマスコミも宮本に同情的であった。
1977年7月、第11回参議院議員通常選挙で全国区から初当選し、1989年まで務める。 1982年7月-8月、第16回大会1中総で中央委員会議長に選出。 1997年9月、第21回大会で欠席のまま引退し、名誉議長に退いた。2000年11月、第22回大会で名誉役員。
[編集] 盗聴事件
1970年、自宅の電話回線が創価学会の学生部幹部数名により盗聴されるという事件の被害にあった。この事件は後に創価学会を同事件を根拠に恐喝し実刑判決を受けた元顧問弁護士山崎正友が主導した。山崎自らが、盗聴事件の実行犯は自らを含めた複数の創価学会幹部であることを週刊誌にて告白した1980年に、宮本は、特定の個人は不明としながらも、宗教法人としての創価学会に対して、盗聴被害の損害賠償を求める民事訴訟を起こした。1988年、東京高等裁判所での控訴審の判決後、学会側が最高裁判所への上告を取り下げたことにより、創価学会側の敗訴が確定している。
[編集] その他
- 現在の日本共産党幹部会委員長志位和夫は宮本家の家庭教師だった。その教え子は現在北海道大学大学院教授で民主党のイデオローグ宮本太郎。
- 政治以外の話題としては「ポルノ番組批判」をしたことが挙げられる。1975年、11PM(日本テレビ系列)独占!男の時間(東京12チャンネル)に代表される女性の裸体を売りにした番組が多いという現状に憤り「今の商業テレビ界には女性を軽視した番組、ポルノ番組が満ち溢れている」と批判したことにより、民放テレビ業界はパニックに陥った。この発言をきっかけに「ポルノ番組追放キャンペーン」が展開された。
- 引退劇の詳細については、離党した筆坂秀世が、著書で自身の見解を明らかにしている。
[編集] 関連項目
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