小宮豊隆
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小宮豊隆(こみや とよたか 1884年3月7日 - 1966年5月3日)は日本の独文学者、文芸評論家、演劇評論家。夏目漱石の門下で、漱石の研究書を著したが、漱石を崇拝する余り神格視することが多く、「漱石神社の神主」と揶揄された。漱石の『三四郎』のモデルとしても知られる。俳号の逢里雨(ほうりう)は豊隆の音読み(ほうりゅう)に別の字を宛てたもの。
福岡県仲津郡久富村(現在の京都郡みやこ町)に生まれる。旧制の福岡県立豊津中学校(現在の福岡県立豊津高等学校)を経て旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)に進む。同学年に安倍能成、中勘助、藤村操、尾崎放哉、岩波茂雄がいた。1905年、東京帝国大学文学部独文科に入学。大学時代に夏目漱石の門人となり、寺田寅彦、森田草平、芥川龍之介、内田百閒、鈴木三重吉、久米正雄、松岡譲、野上豊一郎、津田青楓たちと交際。時には、連載小説執筆中で神経が昂ぶっている漱石から怒鳴りつけられたこともあった。
能や歌舞伎や俳句などの伝統芸術にも造詣が深かった。特に松尾芭蕉に関しては、1925年から、「閑さや岩にしみ入蝉の声」に出てくる蝉はアブラゼミかニイニイゼミかという問題を巡って齋藤茂吉と2年越しの論争をおこなった。小宮は「しづかさや、とか、岩にしみ入るといった表現 は、威勢のよいアブラゼミにはふさわしくない。この蝉は、ニイニイゼミであろう」と主張。結局、この句は山形県の立石寺で旧暦5月27日(新暦で7月下旬)に作られたことと、この時期に山形でアブラゼミは鳴かないことが明らかになり、齋藤は論破された。
独文学者としては、慶應義塾大学や東北帝国大学法文学部などの教授や図書館長を務めた。1946年に東北帝国大学を辞してからは、東京音楽学校(現在の東京藝術大学)の校長や国語審議会委員などを歴任。東京音楽学校の校長時代に、森田草平の紹介で伊福部昭を作曲科講師に迎えた。
漱石全集や寺田寅彦全集の編纂者としての功績も大きい。1954年には、浩瀚な漱石伝『夏目漱石』(全3巻)で芸術院賞を受賞。しかし、漱石二男の夏目伸六からは、未消化の資料を大量に羅列しているだけで著者(小宮)の頭の悪さが目立つと酷評された。