小浜藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小浜藩(おばまはん)は若狭国小浜(現在の福井県小浜市)周辺を支配した藩。藩庁は小浜城。
目次 |
[編集] 概要
戦国時代、小浜は丹羽長重、次いで浅野長政、そして木下勝俊が入った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで勝俊は西軍に与したため、戦後に改易されてしまった。その後、勝俊は歌人として名を残したと言われている。
木下氏の後、小浜には近江大津城主であった京極高次が8万5000石で入る。高次は関ヶ原の戦いで東軍に与して大津城に籠城し、西軍の立花宗茂らと激しい攻防戦を繰り広げた。しかし宗茂らの激しい猛攻の前に大津城は開城を余儀なくされ、高次は高野山に上った。ところが高次の善戦により、宗茂ら1万5000人の西軍別働隊は9月15日の関ヶ原本戦に遅参してしまった。戦後、家康はこの功績を高く評価し、高次に小浜を与えたのである。これが、小浜藩の立藩である。高次は翌年、近江高島郡内において7000石を与えられ、合計9万2000石を領する大名となった。
慶長14年(1609年)の高次死後、その家督は子の京極忠高が継ぐ。忠高は常高院と共に大坂の陣などでは和議交渉で活躍した人物である。しかし忠高は寛永11年(1634年)に出雲松江藩へ23万5000石で移封された。
その後、小浜には武蔵国川越藩主だった酒井忠勝が11万3500石で入る。寛永13年(1636年)には下野国内において1万石を加増され、合計12万3500石を領する大名となる。ちなみに忠勝はいうまでもなく、土井利勝らと並ぶ幕府初期の有名な老中・大老を兼任した人物である。忠勝の後、その家督は四男の酒井忠直が継いだ。忠直の時代である寛文8年(1668年)、兄の子である酒井忠国に1万石を分与して安房勝山藩が成立する。天和2年(1682年)には忠直の次男に1万石を分与して越前敦賀藩(後期敦賀藩、鞠山藩)が成立する。また同時に五男・酒井忠根にも3000石が分与されたため、小浜藩の所領は10万3500石となった。
藩政においては、初代藩主・忠勝は町奉行や代官を設置し、さらに税制の確立にも尽力して藩の支配体制を固めた。しかし享保20年(1735年)に小浜一帯を大洪水が襲って藩内に大被害をもたらした。しかもそれに連鎖するように飢饉も相次いで領民は大いに苦しんだ。このため、小浜藩の領民は協力して藩主に窮状を訴えたが、聞き入られなかったため、明和7年(1770年)に百姓一揆が起こった。藩は何とか財政難打開を図ったが、天保7年(1836年)には藩に冷害による飢饉が襲い、遂に財政は火の車となった。
第12代藩主・並びに第14代(最後)の藩主となった酒井忠義は、幕末期の京都所司代としては有名な人物である。忠義は井伊直弼に協力して安政の大獄を積極的に京都で推し進め、和宮降嫁や公武合体、武田耕雲斎率いる天狗党の乱鎮圧などで活躍した。慶応4年(1868年)の戊辰戦争で、忠義は幕府側に与して新政府軍と戦ったが、敗れて降伏した。その後、小浜藩は新政府より北陸道鎮撫使の先鋒を命じられ、奥羽まで転戦した。
明治2年(1869年)の版籍奉還で酒井忠禄(忠義の再任後の名前)は小浜藩知事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で小浜県となる。同年11月には敦賀県となり、明治9年(1876年)に滋賀県に編入され、明治14年(1881年)には福井県に編入されたのである。
[編集] 歴代藩主
[編集] 京極氏
外様、9万2000石→11万3000石。
[編集] 酒井氏
譜代、11万3000石→10万3000石。
- 酒井忠勝(ただかつ)従四位上。讃岐守。左少将。
- 酒井忠直(ただなお)従四位下。修理大夫。侍従。
- 酒井忠隆(ただたか)従四位下。遠江守。
- 酒井忠囿(ただその)従四位下。靭負佐。
- 酒井忠音(ただしげ)従四位下。修理大夫。侍従。
- 酒井忠存(ただあきら)従五位下。備後守。
- 酒井忠用(ただもち)従四位下。修理大夫。侍従。
- 酒井忠与(ただよし)従四位下。遠江守。
- 酒井忠貫(ただつら)従四位下。修理大夫。
- 酒井忠進(ただゆき)従四位下。讃岐守。侍従。
- 酒井忠順(ただより)従四位下。修理大夫。
- 酒井忠義(ただあき)従四位上。修理大夫。少将。
- 酒井忠氏(ただうじ)従四位下。若狭守。
- 酒井忠禄(ただとし)従四位上。少将。(酒井忠義の再任)