島津家久
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島津 家久(しまづ いえひさ、天文16年(1547年) - 天正15年6月5日(1587年7月10日))は、戦国時代・安土桃山時代の島津氏の武将。島津貴久の四男。母は本田丹波守親康の女。島津義久・義弘・歳久らは異母兄。幼名又七郎。中務大輔を名乗った。
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[編集] 生涯
祖父の島津忠良より「軍法戦術に妙を得たり」という評価をされていた。その期待通りの成果を挙げていく。初陣は1561年7月の肝付氏との廻坂の合戦であった。家久はわずか十五歳にして敵将工藤隠岐守と鑓合わせして討ち取っている。
[編集] 上洛
1575年、島津氏の三州平定の神仏の加護を伊勢神宮などに謝するため上洛した。4月、家久は上洛し連歌師里村紹巴の弟子心前の家に宿泊した。紹巴を介して公家衆や堺の商人と交流した。さらに、織田信長との邂逅や明智光秀との交流があった。
[編集] 沖田畷の戦い
耳川の戦いで大友氏が衰退すると、肥前の龍造寺隆信が台頭してきた。龍造寺隆信の圧迫に耐えかねた有馬晴信が島津氏に援軍を要請してきた。それに応えた島津軍は龍造寺方の千々石城を攻め落とした(1583年)。
翌年、家久が総大将として島原に向かうことになった。有馬勢と合わせて5000余りに対して、諸説あるが龍造寺軍25000~60000という圧倒的兵力に立ち向かうことになった。家久は『釣り野伏』と呼ばれる島津得意の戦法を駆使し、龍造寺軍を沖田畷と呼ばれる湿地帯に誘い込み、弓鉄砲を雨のように降らし、身動きのできなくなったところで龍造寺隆信を初め、一門・重臣など3000余人を討ちとった。ほどなくして龍造寺氏は島津氏の軍門に降ることとなった。
[編集] 戸次川の戦い
九州制覇を目指す島津氏は、豊後の大友氏を殲滅しようとしていた。その援軍として、仙石秀久の率いる豊臣連合軍の先発隊が九州に上陸した(1586年)。長宗我部元親、信親、十河存保の総勢6000余りであった。敵味方4000余りが討死した乱戦であったが、長宗我部信親、十河存保が討死し、豊臣連合軍が総崩れとなり大勝した。
[編集] 謎の死
その後上方での封土を条件に秀長軍と単独講和するものの、天正15年(1587年)6月5日、佐土原城で急逝。秀吉側による毒殺・島津側による毒殺、病死など様々な憶測が取りざたされるが定かではない。ただ、豊臣・島津双方にとって家久を毒殺するメリットが少ないことや、秀長の側近福地長通が義弘に宛てた書状(同年5月13日付)に家久が病気であることが記されていることから、病死の可能性が強い。