幣原喜重郎
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生年月日 | 1872年9月13日 (旧暦明治5年8月11日) |
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出生地 | 大阪府門真市 |
出身校 | 東京帝国大学法学部 |
学位・資格 | 従一位 勲一等旭日桐花大綬章 男爵 法学士(東京帝国大学) |
前職 | 農商務省行政官 外務省外交官 ロンドン領事 仁川領事 釜山領事 外務省次官 外務大臣 内閣総理大臣臨時代理 貴族院議員 |
世襲の有無 | 貴族院華族議員 |
在任期間 | 1945年(昭和20年)10月9日 - 1946年(昭和21年)5月22日 |
選挙区 | 貴族院華族議員 (※総理大臣辞任後は 衆議院大阪第3区) |
当選回数 | 貴族院華族議員 |
所属(推薦)党派 | 同和会 |
幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう、1872年9月13日(明治5年8月11日)- 1951年3月10日)は日本の政治家、外交官。戦前に4回外務大臣を務め、党人派の幣原外交として軍人派の田中外交と対立する。終戦後は第44代内閣総理大臣(在任:1945年10月 - 1946年5月)、第40代衆議院議長に就任した。従一位勲一等男爵。
目次 |
[編集] 出自
大阪府門真市の豪農の家に生まれた。兄坦は教育行政官、台北帝国大学初代総長。大阪中学校、第三高等学校を経て東京帝国大学法学部卒業。
[編集] 戦前
1915年に外務次官となり、ワシントン会議においては全権委任をつとめる。外務大臣になったのは1924年の加藤高明内閣が最初。以降、若槻礼次郎内閣(1次・2次)、浜口雄幸内閣と4回外相を歴任。
この間に対米英協調と民族運動が高揚する中国において、あくまで利権の回復のみを求める内政不干渉方針で対応する。彼の1920年代の自由主義体制における国際協調路線は「幣原外交」とも称され、軍部の軍拡自主路線「田中外交」と対立した。
しかし、1930年にロンドン海軍軍縮条約を締結させると、特に軍部からは軟弱外交と非難された。その後、関東軍の独走で勃発した満州事変の収拾に失敗し、政界を退いた。
幣原外交の終焉は文民外交の終焉であり、その後は軍部が独断する時代が終戦まで続いた。
なお、浜口内閣時代には、浜口首相の銃撃による重傷によって、首相臨時代理を務めたことがある。
[編集] 戦後
第二次世界大戦が終結し、吉田茂の後押しもあったといわれるが、戦後に内閣総理大臣に就任。当時引退済みで、本人は首相に指名されたことを嫌がって引っ越しの準備をしていたが、昭和天皇じきじきの説得などもあり政界に返り咲いた。世間で幣原の存在は忘れ去られていたため、「まだ生きていたのか」「とんでもない古い奴が出てきた」などと言われたが、親英米派としての独自のパイプで活躍、戦後憲法とりわけ第9条の誕生に大きな役割を果たした。ただし、吉田が幣原を首相に推したのは吉田の政治的な地位作りのためであったといわれている。
GHQの占領政策に基づき憲法草案を作るが、保守的な幣原の草案はGHQに拒否される。女性参政権が認められた戦後初の総選挙で、日本自由党が第一党となったため総辞職、吉田内閣が発足する。その後、日本進歩党総裁となり、民主党の結成にも参加したが、片山内閣の政策を批判して民主自由党に参加、衆議院議長に就任する。内閣総理大臣経験者の衆議院議長は初めてであった。議長在任中に78歳で死去。
[編集] 家族親族
幣原喜重郎は幣原新治郎の次男として生まれた。新治郎の長男、つまり喜重郎の兄にあたる幣原坦(幼名・徳治郎)は東洋史学者で教育行政官。坦の次女・澄江は農芸化学者・古在由直の長男・由正に嫁いだ。由正・澄江夫妻の長男が「コザイの式」で有名な天体力学者・古在由秀であり、由正の弟、すなわち由直の次男がマルクス主義哲学者の古在由重である。古在由秀は最後の東京天文台(国立天文台の前身)台長及び国立天文台の初代台長を務め「星の手帖」(既に廃刊)の編集委員としても知られているが、古在由直と幣原坦を祖父にもち、父方の叔父が古在由重、母方の大叔父が幣原喜重郎という華麗な門閥に生まれ、古在家と幣原家の2つの名門の血を受け継いだ天文学者であるといえる。
幣原喜重郎の妻・雅子は三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の四女。従って喜重郎は加藤高明(春路夫人が弥太郎の長女)や岩崎久弥(弥太郎の長男、三菱財閥3代目総帥)、木内重四郎(磯路夫人が弥太郎の次女)らの義弟にあたる。但し春路・久弥・磯路の3人は弥太郎の正妻・喜勢が産んだのに対し雅子は妾腹の出である。従って雅子は春路・久弥・磯路の異母妹にあたる。喜重郎・雅子夫妻は3人の男子をもうけた。長男・道太郎は元獨協大学教授、次男・重雄は元三菱製紙勤務、三男・平三は夭折。岩崎弥太郎の孫にあたる重雄が東京帝国大学卒業後三菱系の企業に入社したのは母・雅子が岩崎家の娘であったことも関係していると考えられる。
要約すれば幣原家は岩崎家・古在家という2つの名門家系と閨閥で結ばれているといえる。
[編集] 系譜
- 幣原氏
新治郎━┳喜重郎━┳道太郎━┳隆太郎 ┗坦 ┗重雄 ┗章二
[編集] 裏話
- “幣原”という語彙は、欧米人にとっては発音しづらいものであったらしく、或る日、幣原は外国人記者から次の様な質問をされた。
- 記者:「閣下。貴方のファミリーネームは『シデハラ』なのですか?それとも『ヒデハラ』なのですか?」
- 幣原:「私(男性)は、『ヒーデハラ(Heデハラ)』で、家内(女性)は『シーデハラ(Sheデハラ)』です。」
外交官出身なために英語に詳しく、旺盛なユーモア精神の持ち主でもあった幣原は、このように答えたという。周りの者は仕方が無いので追従笑いでごまかしたそうである。
- 英語に関しては、まず英字新聞を和訳しその和訳文を再び英訳する、ことを繰り返し学習したという。
- 幣原は書道や文章に優れている事で外務省内には知られており、幣原が外務大臣だったときに次官を務めていた吉田茂は、省内の文書が次官の決裁後に大臣である幣原の下に届けられると、幣原が文面を全て校正してから決裁をする事を知って、「大臣の所に行った文書は書き直されてしまうのだから、大臣の決裁を貰ってからでないと次官の決裁は出せない」と皮肉を述べたところ、この話が幣原に伝わってしまい、暫くの間二人の仲は険悪になったと言われている。だが、東久邇宮内閣総辞職後にマッカーサーから後任総理について尋ねられた時、世間から忘れ去られていた幣原をマッカーサーに推挙したのは吉田であったという。
- しかし日英同盟放棄を決定し親米路線を選択したことにより、日本と欧米のパイプ役(イギリス)を失い間接的に開戦への足がかりを作ったことは事実である。よって、幣原自身にも他の戦犯同様に少なからずとも責任があると思われる。
[編集] 著作
- 『外交五十年』中公文庫(書籍情報: ISBN 4-122013-91-7)
- 『幣原喜重郎―外交五十年 人間の記録 (64)』日本図書センター(書籍情報: ISBN 4-820543-09-1)
[編集] 参考文献
- 岡崎久彦『幣原喜重郎とその時代』PHP文庫(書籍情報:ISBN 4-569579-93-0)、PHP研究所(書籍情報:ISBN 4-569610-83-8)
- 塩田潮『最後の御奉公―宰相 幣原喜重郎』文芸春秋(書籍情報:ISBN 4-163463-80-1)
- 塩田潮『日本国憲法をつくった男―宰相幣原喜重郎』文春文庫(書籍情報: ISBN 4-167516-03-9)
- 馬場伸也『満州事変への道―幣原外交と田中外交』中公新書(書籍情報: ISBN 4-121003-02-0)
[編集] 関連項目
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