御陵衛士
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御陵衛士(ごりょうえじ)は、天皇の御所を守るための組織。別名、高台寺党(高台寺、月真院を屯所としたため)とも言う。
慶応3年3月10日に伊東甲子太郎が思想の違いから新選組を離脱、志し同じ者を新選組から引き抜いて結成した。(一応の離脱理由は、泉湧寺塔中戒光寺の長老 湛然の仲介によって孝明天皇の御陵守護の任を拝命した事と、それに伴い薩摩、長州の動向を探るという事であった。最初は五条橋東詰の長円寺に屯所を構えた)
同志に弟の三木三郎、篠原泰之進、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助、富山弥兵衛、阿部十郎、内海次郎、加納鷲雄、中西昇、橋本皆助、清原清、新井忠雄、斎藤一(斎藤は新選組の間諜とも)。(計十五名)
他にも、茨木司、佐野七五三之助、富川十郎、中村五郎ら10名も後に合流を図ったが、嘆願に行った会津藩邸で、茨木、佐野、富川、中村の四人が死亡(切腹、殺害両説あり)、残りの6人が放逐という結末となった。これとは別に、武田観柳斎も衛士側に合流を拒否された。
慶応3年6月 山陵奉行 戸田大和守忠至に属し、長円寺から東山の高台寺 月真院に移り禁裏御陵衛士の標札を掲げた。薩摩の後押しで勤王、倒幕活動に従事した。(薩摩の援助で羽振りの良い生活だったようだ)
新選組とは佐幕と勤王倒幕で袂をわかっただけに、新選組の襲来を恐れていつも刀を抱いて寝たという。 ただし、近年の研究では倒幕と言っても緩やかなものであり、松平春嶽らの思想に近かったものと言われている他、薩摩藩とは一定の距離を置いていたという説がある。
油小路事件で伊東や藤堂らが死亡。残った同士は薩摩藩邸に逃げた。これにより解散。 その後の御陵衛士の生き残りは赤報隊に2番隊として参加した。