応仁記
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応仁記(おうにんき)は、室町時代の歴史書である。足利将軍家や畠山氏、斯波氏の家督争いなどから発展した「応仁の乱」を中心に、その原因と洛中の合戦の様子や東軍細川勝元と西軍山名持豊(宗全)の死までが記されている軍記物語。
全3巻で、各種の諸系統本がある。「太平記」の影響を受け、漢字カタカナ交じり文。作者未詳。成立年は15世紀末から16世紀中ごろと諸説ある。
その内容は、室町時代の末期の応仁元年(1467年)から文明9年(1477年)の10年余りにわたり、都とその周辺で争われ、荒廃させた戦乱を描き、梁の宝誌和尚作と伝えられている『野馬台詩』末六句に予言された「修羅闘諍」の世界を描写する意図があったと考えられる。それを作者の自らの解釈を交えながら、乱による荒廃した都、その哀惜や悲嘆、乱の原因から戦闘場面に移る克明な描写。最後は「都鄙遠境共ニ修羅道トゾ成二ケル。」で終わる。このようなことから。この応仁の乱を熟知し、何らかの関与をしていた人物で武家の戦乱の無意味さを嘆いた出家した僧か公家が作者ではないかとも思われる。儒教的色彩も濃い。
[編集] 関連
[編集] 外部リンク
- 芝蘭堂・・・応仁記現代語訳