抜刀隊
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抜刀隊(ばっとうたい)は明治10年(1877年)に起きた西南戦争の田原坂の戦いの際に、官軍方で警視隊の中から選抜して臨時に編成された決死隊の名。
[編集] 概要
田原坂の戦いで、官軍方の死傷者が続出した状況下で、事態を打開すべく、薩摩軍の陣地に白兵突入して、一気に田原坂を攻略するために編成された。そのため、徴兵制によりその多くを農民出身者で構成される陸軍ではなく、士族出身者で構成される警視庁の警視隊から選抜して決死隊を編成した。
小説やドラマ等では、抜刀隊員として旧会津藩士や、新選組の斎藤一ら旧幕府側出身者や関係者が多く参加していたとする描写が多いが誤りである。実際には抜刀隊に属した隊員の出身地は薩摩が最も多く、その他は全国に分布しており、戊辰戦争で旧幕府方に属した藩の出身者に偏っているとは言えない。これは警視隊に属して西南戦争に従軍したことを、抜刀隊に属していたと誤って伝えられていることが多いためである。元会津藩家老佐川官兵衛も抜刀隊に属していたとよく誤解されているが、佐川は豊後口第二号警視隊に属して西南戦争に参加しているが、抜刀隊編成以前に戦死しており、抜刀隊には属していない。
士族だけあり刀の扱いに関してはひけをとらず、3月13日早朝に突如襲撃を加えた抜刀隊は大きな戦果を挙げた。しかしながら勢いに乗って深入りしすぎたため、抜刀隊側も相当の損害を出している。全滅した隊も少なくなかった。旧幕府側出身の抜刀隊員達は、賊軍の汚名を晴らすべく「戊辰の仇、戊辰の仇」と叫んで斬り込んでいったと伝えられているが、公式記録に無く、証言した従軍者も伝聞情報であり、直接聞いたわけではない。(ただし山川浩や立見尚文など旧幕府側出身の将校や兵士達には、この戦い含めた西南戦争自体を戊辰戦争の復讐と考えていた者も居た事は事実である)
抜刀隊の奮戦と活躍は田原坂攻略の要となり、その戦いぶりは「抜刀隊」という軍歌になって、のちのちまで歌い継がれることとなった。この軍歌を元として作られた「陸軍分列行進曲」は、現在でも陸上自衛隊と警察が行進曲として使用している。また、いったん廃れた剣術が見直されるきっかけともなった。
[編集] 関連項目
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