掛布雅之
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
掛布 雅之(かけふ まさゆき、1955年5月9日 - )は、プロ野球選手、野球解説者である。新潟県三条市生まれ、千葉県千葉市育ち。4代目ミスタータイガース。
目次 |
[編集] 来歴・人物
習志野市立習志野高等学校出身。三年生の1973年秋、父・泰治が千葉商業高校の野球部長兼監督だった頃の教え子でヤクルトの二軍監督だった小川善治に入団を頼み込んだが断られ、今度は千葉商の野球部監督経験者の篠田仁氏に依頼。篠田は懇意にしていた阪神タイガースの安藤統男(同年限りで現役引退し、コーチ)に口利きを頼んだ結果、金田正泰監督へ話が伝わり入団テストを受けて合格し、ドラフト6位指名で契約金500万円年俸84万円で入団。同年1位は佐野仙好。1974年の春季キャンプで徹底的に鍛えられ、1軍オープン戦の対南海戦で初出場。掛布と同年南海ドラフト1位の野崎恒男から1軍オープン戦初ヒットを代打で打つ。
2死ランナー3塁での初タイムリーで打点付きの活躍をみせ、3月21日に鳴門球場での対太平洋戦で初スタメン。中軸を打つショートの藤田平が結婚式で休みのため7番ショートでの代役だったが、東尾修から4打数2安打を記録。そして3日後、日生球場での対近鉄戦では内野の中堅であった野田征稔(後にマネージャー)も母を亡くして帰郷。またまた代役での8番サードで出場することになったが、その試合で何と4打数4安打の大活躍を見せる。1軍オープン戦が終わってみれば18打数8安打2二塁打の活躍でついに2軍へ戻る事がなかった。高卒1年目にして1軍定着。同年のジュニアオールスターにも出場した。1976年に3割を記録してブレークし、その年のベストナインに選ばれる。さらに翌1977年にも大活躍、応援歌「GO!GO!掛布」も売り出された。その純朴さが女性ファンに受けたらしく、黄色い声援が飛んだという。
1979年、田淵幸一が移籍したあとの主砲としてチーム新記録となる48本の本塁打(それまでのチーム記録は藤村富美男の46本。1985年にランディ・バースが54本で更新。しかし、現在でも日本人選手の球団記録。)を放ち、本塁打王となる。それ以降、1982年、1984年にも本塁打王、1982年は打点王にも輝くなど「ミスタータイガース」として人気を博した(当時はミスタータイガースから田淵を除外して、掛布が三代目ミスタータイガースと呼ばれたが、現在では田淵を含めて掛布を四代目とすることが一般的である)。1980年代前半は不動の4番打者。また、同学年でもある江川卓との対決は、両者が全盛期だった1980年代前半の名勝負といわれた。
もともとどちらかといえば中距離打者だった掛布が長距離打者となったのは、田淵の移籍というチーム事情が大きい。体格的に決して恵まれていなかった掛布は、猛練習による強靱な体力(特に手首)で打球をスタンドまで叩き込んだのである。しかしこの打法は体への負担も大きく、選手寿命を縮める一因となったともいわれる。後述するように、引退の発端となったのは手首への死球であった。
甲子園でホームランを量産するために、浜風とケンカするのではなく利用しようと研究を重ね、レフトスタンドへホームランを量産する掛布独特の芸術的な流し打ちを身につけた。以後レフトへのホームランが飛躍的に増え、球界を代表するホームランバッターとなった。
1985年の優勝時には3番ランディ・バース、4番掛布、5番岡田彰布からなるクリーンナップの一角を担って強力打線を形成し、優勝に貢献した。1985年のバックスクリーン3連発(掛布はバックスクリーン左に入った為、賞金をもらい損ねている)ではバースに続いてホームランを叩き込み、この年の象徴のように語られている。1986年4月、中日戦でルーキーの斎藤学投手から手首に死球を受けて不振に陥る。実質これが選手生命を絶たれる原因となる。それ以降華麗なバッティングは影を潜める。1988年にはプロ入り以来初めての二軍落ちも経験したが、故障続きでかつての打棒は甦らず、現役を引退。通算349本塁打は阪神のチーム記録となっている。
現在は阪神OBでありながら日本テレビ・読売テレビ・ラジオ日本・スポーツ報知といった、どちらかと言うと巨人寄りのマスコミで野球解説者として活躍している。読売テレビの解説者には阪神OBの枠が存在しており、藤村富美男や村山実も読売テレビ解説者だった。巨人寄りの解説をするため、東京ドームの巨人-阪神戦の解説に阪神寄りの解説をする川藤幸三をつけたほうが良いといった声もある(甲子園からの中継では川藤・掛布のW解説が定着している)。
週刊誌などではよく岡田彰布(2004年から阪神監督)との確執が取りざたされている。しかし、岡田の頭の中には2人の掛布雅之(野球選手としての掛布と現在の評論家としての掛布)が存在しているらしく、ミスタータイガースとしての掛布は今も尊敬しているが、現在の評論家としての掛布のことはあまり気に入ってないらしい。そもそも確執が取りざたされたのは、掛布本人も語るように岡田と2人で食事に行ったことが一度もないことが発端だったそうである。しかし、これは周囲の先輩に気を遣う岡田本人の配慮であり、ミスタータイガースと呼ばれた先輩掛布への尊敬の念が強すぎたために野球以外のことで2人で行動することを遠慮した結果とも言える。
[編集] エピソード
- 幼少時に父親によって利き腕を左に矯正。田中好子と共演したミツカンのテレビCMでは左手で箸を持ってちらし寿司を食べるシーンがあった。
- ヒッティングマーチは掛布が最初とされる。一番初めは「GO!GO!掛布」のサビ。後に「ここまでとばせ~放り込め放り込めカケフ」(六甲おろしの♪フレ フレ フレ フレ~のフレーズ)に替わった。
- 金鳥の蚊取りマットのテレビCMに長期にわたり出演した。プロ野球選手は「憧れのかっこいい人」というイメージが強かった時代に、当初から三枚目的キャラクターとして起用され、好感度を上げることになった。しかし、1980年に放映されたバージョンでは「これで安心して眠れるなぁ。」と三塁ベース上で居眠りする場面があり、この年ケガなどで成績を落としたことから、その内容がファンから不評を買った。
- 1980年のオフに、さるスポーツ紙の大阪版に「掛布を南海に放出、投手数名とトレード」という「スクープ」が1面トップに出たことがあった。球団は即座に否定したものの、江夏や田淵の放出劇がまだ記憶に新しい頃で、ガセネタでは済まされない内容であった。掛布自身も大きな衝撃を受け、そうした話が出ないようにするため摂生に努め、翌年から1985年までは5年連続で全試合出場を果たすこととなった。
- タレントの松村邦洋にものまねされているが、「阪神よりも下半身がいいですねー。(下ネタ)」など絶対言わないことまで言うので本人は少々迷惑がっている。だが、これをきっかけに親交は深くなった。
- “雅之”という名前は掛布の父親が俳優の森雅之の大ファンだったことから名付けられた。
- プロ15年間、公式戦でサヨナラホームランを打ったことが一度もない。サヨナラヒットも1本のみである。(ただし、オールスターでは1981年の第2戦でサヨナラホームランを打った。)
- オールスターには強く1978年には3打席連続ホームランの記録を残している。
- 永久欠番とはならなかったものの、野球ファンの間で背番号31といえば掛布というイメージが強い。そのイメージの強さを表すエピソードに大黒将志が初めてサッカー日本代表に選出されたときの背番号が31だった事に「掛布と同じですね。縁起えぇわ」と喜んでいる。
- 背番号31について、長嶋茂雄の3番と王貞治の1番を足して31番とした、と言われる事があるが、掛布本人は、球団から提示された空いている背番号の中で一番若い番号だったから、と語っている。ちなみに掛布の前に付けていたのは、入団直前の1973年のシーズン限りで退団した外国人選手ウィリー・カークランドであった。
- テレビアニメ「新・巨人の星」では打者として復活した飛雄馬のライバルとして登場、飛雄馬の殺人スクリュー・スライディングを打ち破った。
- 2004年秋に発足当初の東北楽天ゴールデンイーグルスから監督要請があったように報じられるが、結果的に田尾安志が監督に就任した。このことについて実のところ、楽天によって玩具まがいの扱いをされていたことが先輩である加藤博一から1年後の10月に伝えられた。
- ゲン担ぎで、よく試合前に背番号31にあやかってサーティーワンのアイスクリームを食べていたらしい。
- 山本浩二が1983年4月30日の阪神戦で、あとは三塁打さえ出ればサイクルヒット達成という場面において第5打席にライト側に長打を放ったが、晩年の山本では三塁まで狙うのはかなり厳しい打球であった。それでも果敢に塁を狙い、三塁で掛布雅之とのクロスプレーを制して悲願のサイクルヒット達成となったのだが、この時の掛布のタッチの動作が非常にゆっくりとした追いタッチであったため、このシーンは今でもファンの間で語り草となっている。そもそもサイクルヒットは達成の前にチャンスを作ること自体が難業である。山本は前の打席で中前打を放ち三塁まで進んできた時に「カケよ、次の打席で外野を抜いたらどんな打球でもココへ突っ込むから、よろしく頼むで」と言って実行した山本。そしてタイミング的にはアウトだったろうにそれをセーフとした掛布。その試合は阪神が大差でリードされており且つ試合も終盤であったため、山本浩二に三塁打を許しても流れは変わらないと判断した掛布が独断で「粋な配慮」を見せたと言われている。
- 入団初年度時に寮でビール・ウイスキー・日本酒をミックスした大皿を一気に飲み干し「これが習志野流」とタンカを切ったり、現役晩年に山本和行と酒の席で山本が「野球は一人で勝てる」と言った事に対して「じゃあ俺達が捕球しなくても勝てるんですか?」と子供じみたケンカをしたり、酒気帯び運転時に警官に「俺は阪神の掛布だ」とすごんだり、かなり酒癖は悪いようだ。ただし、ギャンブルとタバコは全くやらない。
- 1987年3月22日、飲酒運転で逮捕された(その時乗っていたのはフェラーリ)。マスコミからの非難のみならず久万俊二郎オーナーにも「欠陥商品」と痛罵されてしまう。公共交通機関を運営する会社の社長(当時)として、社員の重大な交通違反を許す訳にはいかなかったのであろう。この件は掛布がタイガースに愛着を持ち続けているにもかかわらず未だ一度も現場復帰できていない一因となっている。
- 読売ジャイアンツ捕手の阿部慎之助の父親は掛布の習志野高時代の同級生で、同じく野球部に所属していた。高校時代は阿部の父親が4番を打っており、掛布は3番打者だった。今でも阿部の父親とは深い親交があり、阿部が子どもの頃から掛布に憧れていたのはこの縁に由来する。
- 千葉育ちもあってか、千葉出身の長嶋茂雄のことを敬愛している。デビューした年の5月21日の巨人戦でプロ入り初安打を記録したとき、掛布は三塁を狙ったが長嶋にタッチアウトされた。しかし、「憧れの長嶋」にタッチされたことがうれしくてたまらなかったという。
- ある時、スランプに陥っていた掛布は長嶋に電話でアドバイスを求めた。するとミスター曰く「そこにバットある?あったら振ってみて」。首をかしげながら掛布は素振りの音を電話越しにミスターに聞かせた。音を聞いたミスターは「雑念を取り払え、無心で振れ!」と言う。今度は無心でバットを数度振り、音を聞かせる。すると「そうだ、いまのスイングだ。忘れるな!」と言い、電話は終わった。その後掛布はスランプを脱したという。
- 現役時代から球界屈指の大変な車好きとして有名。豊中市にある自宅のガレージには日本、世界の希少な旧車・珍車から最新型のスポーツカー、高級車まで常に10数台の愛車が保管されている。実物の車のみならず、模型やラジコンカーも好み、自身のカスタムカーには31のゼッケンを入れているほど。
- 高校時代、練習試合で江川卓と対戦機会があったが、怪我のため掛布は打席に立てなかった。もしこのとき打席に立っていたら自信を喪失してプロ入りしなかったのではないか、と掛布は語っている。
- プロ入り後、江川は掛布に対する初球は必ずカーブを投げた。しかし、掛布はそれを見送り、ストレートを待って勝負したという。また、掛布によると一度江川が自分を敬遠したときにはその球が異常に早く、「本当は勝負したい」という意思を感じたという。
- 江川とは親友の間柄であり、TVにおいて共演した際には江川に向かい「たまには阪神のOB会に来い」と江川のプロ入りの際のゴタゴタをネタにからかったりしている。
- 1984年に宇野勝と激しく本塁打王を争い最後の直接対決二連戦では両者敬遠攻めに遭い、本塁打王を分け合った。この敬遠の応酬についてはセリーグ会長が両監督(安藤統男と山内一弘)に注意し、最終的には記者団に謝罪するほどであった。
- 現在、長男の啓吾内野手が三菱重工神戸でプレーしているが、彼がつけている背番号も31である。
- 本人をモデルとした漫画『若トラ 掛布雅之物語』がさだやす圭により少年キングで連載されていた。
[編集] タイトル・表彰
- 本塁打王 3回(1979年、1982年、1984年)
- 打点王(1982年)
- 最多出塁数 2回(1981年~1982年)
- ベストナイン 7回(1976年~1979年、1981年~1982年、1985年)
- ゴールデングラブ賞 6回(1978年~1979年、1981年~1983年、1985年)
[編集] 通算成績
[編集] 出演番組
[編集] 歌
- 1977年、遠藤良春が掛布の応援歌「GO!GO!掛布」を歌い、関西を中心に126万枚の大ヒットとなった。掛布本人も1978年、はらたいら(故人)のプロデュースで「掛布と31匹の虫」を発売したが、こちらは残念ながらヒットには至らなかった。尚、「掛布と31匹の虫」はオムニバスCD「えっ!あの人がこんな歌を…。」(1990年7月21日発売)にも収録されている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 阪神タイガース4番打者
- 第50代
-
- 先代:
- マイク・ラインバック
- 次代:
- 竹之内雅史