新古今和歌集
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『新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)は鎌倉時代初期、後鳥羽上皇の勅命によって編まれた勅撰集。古今和歌集以後の8勅撰和歌集、いわゆる「八代集」の最後を飾る。建仁元年(1201年)七月和歌所を設置、同年十一月撰進の院宣が下り、元久元年(1204年)に選定、翌二年三月二十六日完成し奏覧・竟宴。その後、建保四年(1216年)十二月まで切継作業が続いた。
目次 |
[編集] 和歌史上の位置づけ
『古今集』を範として七代集を集大成する目的で編まれ、新興文学である連歌・今様に侵蝕されつつあった短歌の世界を典雅な空間に復帰させようとした歌集。古今以来の伝統を引き継ぎ、かつ独自の美世界を現出した。『万葉』『古今』と並んで三大歌風の一である新古今調を作り、和歌のみならず後世の連歌・俳諧・謡曲へ絶大な影響を残した。
[編集] 撰者
古今に倣って複数人の撰者を持つ。源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮の六人に撰者の院宣が下ったが、寂蓮は完成を見ずに没した。
和歌所設置に際し、撰者を含む十一名の寄人と開闔源家長が任命され、後鳥羽院自身も歌を親選したりして深く関わった。院歌壇の歌人のほとんどが編纂に参加し、何十年にもわたって改訂工作が続いたという、八代集の中でも稀有な存在。
[編集] 成立過程
一般的に4つの期間に別れる。
- 第1期は建仁元年(1201年)の下命時から、撰者達が歌を集めてくるまでである。代々の勅撰集に漏れた秀歌や、六百番歌合(良経主催)と千五百番歌合(上皇主催)が撰歌の母胎となった。
- 第2期は上皇自らにより歌の吟味、選別をした時期。
- 第3期は歌の部類、配列をした時期。撰者以外の寄人も作業に加わる。元久元年(1204年)までに一旦完成した。
- 第4期は歌の修正、切継をした時期。承元四年(1210年)-建保四年(1216年)の間に最終的に完成した。
[編集] 構成
巻は20巻で、春歌(上下)、夏歌、秋歌(上下)、冬歌、賀歌、哀傷歌、離別歌、羇旅歌、恋歌(一~五)、雑歌(上中下)、神祇歌、釈教歌に分かれる。巻頭の仮名序は藤原良経、巻末の真名序は藤原親経による。歌数は八代集中最多の約1980首を収録し、すべて短歌である。配列は巧みで、四季巻は季節の推移順、恋歌は恋の進行程度順に並べられており、古代の歌人と当時の歌人を交互においてある。
入集した歌人のうちでは西行の作が94首と最も多く、以下慈円、藤原良経、藤原俊成、式子内親王(女流最多)、藤原定家、家隆、寂蓮、後鳥羽上皇の順である。万葉歌人の作も多少含まれている。
[編集] 歌風
新古今調といえば、唯美的・情調的・幻想的・絵画的・韻律的・象徴的・技巧的などの特徴が挙げられる。定家の父俊成によって提唱された幽玄、有心の概念を、定家が発展させて「余情妖艶の体」を築き上げ、これが撰歌に大きく反映されている。また、鎌倉幕府成立以降、政治の実権を奪われた貴族社会の衰退の中で、滅びや自然への見方に哀調があると指摘される。またこの頃は題詠が盛んに行われていたことにより、より華やかな技巧にあふれている。題詠によって現実的な心情変化の歌ではなく、定められたお題の中でより複雑に工夫された象徴的な歌が主流になって行った。特に上代以来の数々の和歌の歴史が可能にした数多くの本歌取りに特徴がある。また技法として、余韻・余情をかきたてる体言止め、七五調の初句切れ・三句切れなどが使われている。
[編集] 隠岐本について
承久の乱(1221年)により隠岐に流された後も後鳥羽上皇は十八年の時間をかけて彫琢を加え、新古今和歌集から約400首ほど除いたものこそ正統な新古今和歌集であるという詔を出した(「隠岐本識語」参照)。これを「隠岐本 新古今和歌集」と呼んでいる。この記事に述べられているのは隠岐本ではなく、現在では完全成立直後のものが正統とされている。