日本産業対抗野球大会
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日本産業対抗野球大会(にほんさんぎょうたいこうやきゅうたいかい 通称サンベツ)は1951年から1973年まで後楽園球場で秋季に開催された社会人野球のトーナメント大会。
夏季に開催される都市対抗野球が地域を代表する社会人野球チームの大会ならば、サンベツはその業種を代表するチームによる大会と位置づけられた。プロ野球のドラフト制以前は都市対抗が1年の締めくくりの大会とされていた関係上、この大会は新シーズン・新チームで迎える最初の大きな大会と位置づけられていた。
もともとは、戦前から戦後にかけて行われていた「鉄道大会」(全国29チームの鉄道管理局野球部が優勝を争う大会)に追随するように、1947年には日本炭鉱協会が中心となって21チームで炭鉱野球大会がスタート。その後鉄鋼大会、電機大会、自動車大会などが林立するように開催されるようになり、純粋に「どの業種が一番強いのか」という興味や、日本産業のさらなる発展を後押しするように、全国大会を求める機運が高まり、1951年に第1回大会が開催された。
第1回大会には、以下の22業種から代表チームが後楽園球場に結集し、優勝を争った。
- 国鉄(仙台鉄道管理局)
- 炭鉱(日鉄二瀬)
- 鉄鋼(八幡製鐵)
- 化学肥料(東洋高圧)
- 石油(日本石油)
- 電力・ガス(東京ガス)
- 鉄道・運輸(西京貨物)
- 紙・パルプ・新聞通信(大昭和製紙)
- 綿・紡績(日東紡海南)
- 化学繊維(川島紡績)
- 造船(中日本重工業)
- 建設(馬淵建設)
- 金融(日本生命)
- 醸造(キリンビール)
- 金属鉱工業(藤倉電線)
- 電気機械(明電舎)
- 官業公社(立川AIO)
- 化学・ゴム工業(鐘淵化学)
- 映画演劇(明治座)
- 百貨店(全大丸)
- 商業(愛知産業)
- 機械・自動車(トキコ)
これらの業種は経済情勢の変化や業種の衰退などにより変化し、最後の大会となった第23回大会(1973年)は18業種にて行われた。
しかし、高度経済成長時代とは裏腹にこの大会の存在意識が薄れた影響もあり、1973年に大会が廃止され、1974年からは関西で開催される社会人野球日本選手権大会に移行するようになる。
[編集] 歴代の優勝チームと最優秀選手
回 | 年 | 参加チーム数 | 優勝チーム | 業種 | 最優秀選手 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 1951 | 22 | 鐘淵化学 | 化学・ゴム工業 | 河田清(外) |
2 | 1952 | 22 | 全藤倉 | 金属鉱工業 | 米久保庄(内) |
3 | 1953 | 22 | 熊谷組 | 建設 | 滝峠英明(内) |
4 | 1954 | 22 | 大昭和製紙 | 紙・パルプ・新聞通信 | 北川桂太郎(内) |
5 | 1955 | 22 | トキコ | 機械・自動車 | 久保吾一(内) |
6 | 1956 | 22 | 熊谷組 | 建設 | 吉田嘉直(内) |
7 | 1957 | 22 | 丸善石油 | 石油 | 堀田一雄(捕) |
8 | 1958 | 22 | 日鉄二瀬 | 炭鉱 | 大原博志(内) |
9 | 1959 | 21 | 倉敷レイヨン | 化学繊維 | 隅三次(内) |
10 | 1960 | 21 | 日本鋼管 | 鉄鋼 | 池田英俊(投) |
11 | 1961 | 20 | 熊谷組 | 建設 | 島津四郎(投) |
12 | 1962 | 21 | 日本生命 | 金融 | 角淳三(外) |
13 | 1963 | 22 | 熊谷組 | 建設 | 藤津靖雄(投) |
14 | 1964 | 22 | 大昭和製紙 | 紙・パルプ・新聞通信 | 尾関達三(内) |
15 | 1965 | 21 | 日本生命 | 金融 | 三浦健二(投) |
16 | 1966 | 22 | 全鐘紡 | 化学・ゴム工業 | 海老原丘(外) |
17 | 1967 | 22 | 日産自動車 | 機械・自動車 | 斉藤征夫(投) |
18 | 1968 | 22 | 全鐘紡 | 化学・ゴム工業 | 藤原真(投) |
19 | 1969 | 21 | 北海道拓殖銀行 | 金融 | 小弓場保(投) |
20 | 1970 | 21 | 丸善石油 | 石油 | 渡辺憲彦(外) |
21 | 1971 | 15 | 全大昭和製紙 | 紙・パルプ・新聞通信 | 小田義人(内) |
22 | 1972 | 18 | 日本石油 | 石油 | 五月女豊(投) |
23 | 1973 | 18 | エアロマスター | 百貨店・商業 | 平井信司(内) |