曹参
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曹参(そうしん ? - 紀元前190年)。姓は曹氏。諱は参、字は敬伯。秦末から前漢初期の第二代相国となった政治家。黄老の学を重んじた。子に御史大夫を勤めた曹窋がいる。一説では春秋時代に小国であった邾の分家の末裔と言われる。また、高祖の先妻で側室の曹夫人の遠縁ともいわれる(左司馬の曹無傷との親族関係は不明)。爵位は平陽侯で諡は懿侯。
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[編集] 概略・経歴
[編集] 高祖に従軍
曹参は沛県の人で、秦の時代には沛県の刑務所の属吏だった。蕭何はその時の上司にあたり、共に顔がきく役人だった。高祖が挙兵した時、中涓(侍従)として従軍した。反秦連合の一員となった高祖に従い、軍を率いては各地を転戦して活躍した。藍田の東に秦軍を攻め、さらに夜襲をかけ大敗させ、ついに秦の首都咸陽をおとした。漢王となった高祖により将軍に引き立てられ、高祖の下で楚軍を相手に転戦した。高祖二年(紀元前204年)、仮左丞相(名目だけの官職)に任命された。ここからは、高祖から離れて、韓信の軍に従軍して魏・趙・斉を破り、高祖と韓信の軍は、項羽を破りほぼ天下を平らげた。曹参は服従しない斉にとどまって平定した。楚漢戦争後の選評での戦功第一は誰かという評において、数十箇所の傷を負いながらも前線で戦ったことから曹参を推す声も大きかったが、結果的には後方支援で劉邦軍に絶えず兵糧・兵馬を支援し続けた蕭何が選ばれた。
[編集] 斉国の宰相
漢王朝を立てた高祖は、曹夫人が産んだ庶長子・劉肥(悼恵王)を韓信から召し上げた斉国の王とし、曹参を斉国の相国とした。当時の斉は七十余城を数える大国であり、皇位継承第一位の更に最高位の臣下として曹参がなったことからも、功績の多さと評価の高さ、更に劉邦からの信頼の厚さが伺える。
高祖六年(紀元前201年)に、列侯の爵位を賜り、平陽の一万六百三十戸を領地として授かった。叛いた陳豨の将軍張春を破り、これを捕虜にし処刑した。今度は黥布が叛くと悼恵王肥に従い、12万の軍勢を率いて高祖とともに大いに打ち破り、功を得た。(孝)恵帝元年(紀元前194年)、改めて曹参は斉国の丞相に任じられた。曹参は長老や学者を召して人民を安定させる方策を訊ねた。意見はみんなばらばらだった。葢公という人物がおり、黄帝と老子に詳しいと聞いて、彼を招聘し、彼の意見を採用して統治を行った。斉国の丞相となって九年間で斉国は安定し、賢相として称えられた。
[編集] 漢帝国の相国
恵帝二年(紀元前193年)、蕭何が亡くなった。これを聞いた曹参はすぐに上京の準備をさせた。曹参の予想通りすぐに使者が来た。後任の斉の丞相によくいいきかせて後をたくした。曹参は蕭何と昔はとても仲がよかったが、将軍・丞相となってからは疎遠だった。しかし、蕭何が死ぬ間際に自分の後継に推薦したのは曹参だけであった。曹参は漢の相国となったが、高祖と蕭何がさだめたあらゆることがらを変更しなかった。郡や国の役人の中から質朴で重厚な人柄の人物を選び、丞相の属官に任命した。役人のうちで言葉・文章が苛烈で名声を得たがるものは退けた。
曹参は昼も夜も豊醇な酒を飲み、政務に熱心には見えず、彼を訪ねたものは諌めようとしたが、暇もなく酒を飲まされ諌められなかった。曹参は人が小さな過失を犯したのを見ると、それを覆い隠し表沙汰にしないようにしたので相国府では事件は起きなかった。恵帝は、曹参が職務放棄しているのをいぶかり、そのようにするのは自分を軽視しているからだ、と考えていた。そこで曹参の長子・曹窋に自分の陰をちらつかせず諌めさせた。すると曹参は激怒し、わが子曹窋を200回むち打った。朝議の時、恵帝はそのことで、実は自分がそうさせたのでありどうしてそんなことをしたのかと曹参を責めた。曹参は冠を脱ぎ謝罪して、「陛下にはご自分で判断なされまして、聖明英武の点で高帝(高祖)とどちらが上でしょうか」と問うた。恵帝は、自分は高祖におよばないと言った。また曹参は、「陛下は私の能力を見て蕭何とどちらが優れていると思われますか」と問うた。恵帝は、あなたはおよばないだろうと言った。そこで、曹参は「そのとおりでございます。高帝は蕭何とともに天下を平定し法令はすでに明白です。われわれはそれを遵守すればよいのです」と言った。恵帝は納得して、君はゆっくり休んでくれといった。この時代は呂太后の専制下であり、劉家の王や劉邦恩顧の臣が誅殺されたりしていた。曹参も生存する中では劉邦恩顧の最高位の臣として狙われやすい立場であり、目立ち功績を誇るような政治は行えないことも、こういう行為に走らせたのではないかと思われる。
[編集] 曹参の評価
曹参は恵帝五年(紀元前190年)に亡くなった。懿侯の諡を贈られた。人民は、「蕭何は法度を作り、明白でよく整っている。曹参が彼に代わり、遵守して改変しない。その清浄な政治に、民は安らかで一つ」と歌った。 以降の漢王朝でも一部例外を除き、「相国」が蕭何と曹参程の功績のものが居ないのでと永久欠番のような扱いになったことからも、後世でも曹参の評価が高いことが伺える。
司馬遷は、「軍事面の功は韓信に従ったおかげ。秦の残酷な政治の後で人民とともに休息し自然にまかせたので天下の人々はみなその徳をたたえた」と評した。
[編集] その末裔
ちなみに後漢末に登場した曹操であるが、彼の実家は曹参を祖先とする家(曹無傷を祖先とする家であるという説もある)だったが、祖父・曹騰が宦官のために、御家存続のために曹参の同僚である夏侯嬰の子孫である曹嵩を養子に入れ、曹の姓を名乗るということになっている。また、陶謙に仕えていた曹豹が曹参の末裔ではないかとの説もある。
[編集] 参考文献
『史記』曹相国世家