本多忠朝
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本多 忠朝(ほんだ ただとも、1582年(天正10年) - 1615年6月3日(慶長20年5月7日))は、江戸時代初期の大名で徳川家康の家臣。本多忠勝の次男で本多忠政の弟。
父・忠勝に劣らぬ勇将で、関ヶ原の戦いで活躍した。その戦功により、戦後、父が伊勢に移封されると、父がそれまで関東で領していた上総国大多喜5万石を与えられた。
1610年、父の忠勝が亡くなると、父の遺産を兄の忠政にほとんど横取りされたが、忠朝は何も言わなかったと言う。このため、兄よりも忠勝に似ていて武将としてふさわしいと、徳川家康から褒め称えられたという。
1614年、大坂冬の陣でも活躍したが、このとき酒を飲んでいたため、敵の猛攻に遭って敗退した。それを家康に咎められた忠朝は翌年の大坂夏の陣のとき、汚名を返上しようと毛利勝永と戦って奮戦したが戦死した。死の間際、「戒むべきは酒なり、今後わが墓に詣でる者は、必ず酒嫌いとなるべし」と言ったとされることから、死後「酒封じの神」として知られるようになった。