李自成
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李 自成(り じせい ピンイン:Lǐ Zìchéng、万暦三十四(1606年) - 順治元年(1645年))は中国明末の農民反乱指導者。延安府米脂県(現在の陝西省延安)出身。李自成の乱と呼ばれる明に対する反乱を起こし、明を滅ぼした。
明は駅站と呼ばれる駅伝制度を布いていたが、経費節減のために崇禎帝により廃止された。確かに経費節減にはなったが、失業した者たちは路頭に迷い、農民反乱に参加することになる。李自成もその中の一人であった。
1627年・1628年に陝西で起きた大干ばつをきっかけに反乱が頻発し、李自成もそれに参加した。その間の明政府は満州族対策に追われて、満足に反乱対策を行えなかず、これに乗じて反乱軍は勢力を拡大し、山西を制圧し、北直隷(河北省)まで迫るほどになった。
その後、政府軍の反撃により押し返され、河南へと移動する。この時期の反乱軍首領は高迎祥であり、その下に張献忠などが居た。李自成はまだ高迎祥配下の武将の一人に過ぎなかったが、この時の作戦会議「滎陽大会」で官軍に対して全軍が協調して当たるべきだと発言して注目され、更に翌年には官軍に捕らえられて刑死した高迎祥の後継者となり、高迎祥が名乗っていた闖王(ちんおう)の称号を名乗り、反乱軍の首座に踊りでた(「滎陽大会」は清初の本で創作された作り話で実際には存在しなかったとされている)。 しかし高迎祥が死んだことにより、反乱軍の勢いは弱まっており、李自成たちは官軍の追及を逃れて陝西省へ退却し、更に山野に隠れざるを得なくなった。このことで李自成軍に対して楽観視した官軍は湖広(湖北省・湖南省)へと移動していた張献忠軍に圧力をかけ、これによって李自成軍は息を吹き返し、河南を落とした。
この地で挙人(科挙の郷試(地方試験)を合格して、会試(中央試験)には合格していない者)の李巌と出会い、「均田」(農民への土地分配)「免糧」(数年の間の税免除)の二つのスローガンを李巌から提案され、このスローガンと厳正な軍規により農民の支持を集め、一気に数十万の軍勢に膨れ上がった(李巌も今日では清初の小説で創作された架空の人物とされている)。また、牛金星ら知識人を陣営に取り込んでいく事になる。
この勢いに乗って、1641年には洛陽を陥落させ、この地に居た万暦帝の第三子の福王・朱常洵を処刑した。福王は万暦帝に溺愛され、その贅沢のために多額の税金が浪費されたために民衆の恨みを買っていたのである。
更に開封を落とし、1643年に襄陽にて大元帥、続いて新順王と名乗って六部などの国家としての制度を整え、更に西安を陥落させる。翌1644年に西安に入った李自成は国号を大順、元号を永昌として、この地で即位し、2月には順軍は北京を目指して北伐を開始し、同年の3月に北京を陥落させ、明を滅ぼした。李自成の軍が北京城に入城した際には、市民のみならず官兵まで明皇帝を見捨て、隊列をつくってこれを歓迎したという。
北京に入城した李自成たちはここでいよいよ全中国の皇帝となるための諸手続きや儀式の用意を始めた。入城後の李自成軍は殺人鬼として有名な張献忠の軍が合流したこともあり、厳正であった軍規もすっかり緩み、略奪・強姦・殺人が横行していた。その頃、東北地方では満州族(1636年から清となる)に対して前線の拠点である山海関を守っていた呉三桂が清に対して投降していた。
ドルゴンと呉三桂率いる清と明の遺臣の軍と激突し、大敗。慌てて北京を逃げ出した。実に入城から40日と言う短い天下であった。更に李巌と牛金星の確執から牛金星が李巌を殺害して清軍に投降(今日では牛金星は失脚したものの、そのまま李自成軍には留まっていたとする説もある)してしまう。その後西安に逃れた李自成軍だが、ここもすぐに放棄して通城(現在の湖北省)に逃れるが、現地の武装集団により殺される。ただし、僧侶に変装して1674年まで生き延びたと言う伝説もある。
清は北京に入った後は崇禎帝の葬儀を厚く営んで、李自成によって殺された崇禎帝の仇を取るとの名目を持って自らの中国支配を正当化した。このために清代を通じて李自成は反逆者とされ、清滅亡後もしばらくは流賊の頭とみる低い評価が続いたが1960年代に入って郭沫若が李自成を起義軍として再評価する論を唱え、当初は流賊説を取って毛沢東が李自成を農民反乱指導者として評価する見解に修正した事から、李自成の再評価と「大順」国家の研究が進められるようになった。