李舜臣
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李舜臣 | |
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英語表記 | Yi Sun-sin |
ハングル表記 | 이순신 |
漢字表記 | 李舜臣 |
片仮名転写 | イ・スンシン |
日本語読み仮名 | り・しゅんしん |
李 舜臣(り・しゅんしん、朝鮮読み:イ・スンシン、1545年4月18日 - 1598年12月16日)は、文禄・慶長の役時の李氏朝鮮の将軍。字は汝諧。朝鮮水軍を率いて日本軍との戦いに活躍し、日本軍を苦しめた。その功績から韓国では国民的英雄となっている。
京畿道開豊郡の徳水李氏の出身で、現北朝鮮領の開城に生まれた。1576年、武科(武官の登用試験)に及第し、1591年に同派閥の柳成龍により全羅道左水軍節度使(略称:全羅右水使)に大抜擢される。
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文禄の役
豊臣秀吉が朝鮮出兵を開始すると、慶尚道の水軍は壊滅したが残存朝鮮水軍の主導的指揮官の一人として朝鮮水軍を指揮した。緒戦では釜山西方の支配領域拡大のために展開していた日本軍後方諸隊の海上移動のための輸送船を数次に渡って攻撃し、成功を収めた。
攻勢主力を釜山から漢城のラインを軸に平壌・咸鏡道などへ展開していた日本軍は釜山西方の朝鮮南岸で李舜臣の輸送船攻撃が活動が活発となると脇坂安治、加藤嘉明、九鬼嘉隆を各方面から招集し、海上戦闘用の水軍を編成して李舜臣に対抗する事とした。
しかし、単独で抜け駆けをした脇坂水軍を李舜臣は囮を使って閑山島海戦で撃破し、続いて援護のために安骨浦に進出し停泊中の加藤・九鬼水軍を襲撃した。水軍による海上戦闘で不利を悟った日本軍は南岸域の要所に城砦を築いて、船対船の積極的な海上攻撃作戦から船対陸の水陸防御作戦へ戦術を変更した。この戦術転換は有効に機能し、以降の李舜臣による水軍攻撃は釜山攻撃、熊川攻撃など被害が多く成果が上がらないために出撃回数は激減した。
休戦期
1593年、休戦中に功績を認められた李舜臣は三道水軍統制使という朝鮮南部(慶尚道・全羅道・忠清道)の水軍を統べる指揮官に出世した。
しかし、慶長の役の開始直前に朝鮮王朝より上陸集結前の日本軍を攻撃する命令に抗し、攻撃命令を無視し続けたため更迭解任され、白衣従軍(一兵卒に格下げされ功を以て罪を雪ぐ立場)となった。
慶長の役
1597年に李舜臣の後任の水軍統制使元均が朝鮮王朝の攻撃命令を嫌がりながら遂行したが、漆川梁海戦(巨済島の海戦)で大敗を喫し、戦死した。かわって水軍統制使に返り咲いて壊滅した水軍の再建を進めたのが李舜臣である。
日本陸軍によって全羅道や忠清道が掃討されつつある中、壊滅直後の残存艦隊を収容しながら後退した李舜臣の艦隊は、朝鮮半島西南端の潮流の激しい鳴梁海峡で日本水軍を誘導し、突入してきた日本水軍に一撃を加えて勝利した(鳴梁海戦)。しかし後続の日本水軍は強大なため、海戦の夜には戦場海域からの後退を開始した。相前後して全羅道西岸が日本陸軍によって制圧されると李舜臣は拠るべき泊地を失って全羅道の北端まで退却し(当時の水軍は長期の洋上行動はできず沿岸や島嶼に順次泊地を求めながら移動するものであった)、代わって日本水軍が西岸域に進出した。
明の大軍が南下することを察知した日本軍は冬を前に迎撃体勢を取るために慶尚道へ自主後退をした。日本軍の撤退と明水軍の到着を待って李舜臣の水軍も明・朝鮮陸軍と共に朝鮮南岸へ再進出することができた。
1598年明・朝鮮軍が日本最西端の拠点である小西行長等が守る順天城を攻撃しだすと、李舜臣は明水軍の指揮下に入って水陸共同の順天攻撃作戦に参加し同時に順天城の海上封鎖を行った。しかし、水陸両面で明・朝鮮軍は損害を出しつつ苦戦し、厭戦気分が蔓延して攻撃は頓挫した。
秀吉の死によって日本軍に退却命令が出ると小西行長は明・朝鮮陸軍との間に講和を成立させ、海路を撤退しようとしたがそれを知った明・朝鮮水軍に阻まれた。そのため今度は明・朝鮮水軍と休戦交渉を行い明水軍の内諾を取りつけたものの、李舜臣はそれを肯んじなかったため依然順天城に足止めされることとなった。
順天城の海上封鎖のために小西軍が脱出不能と知ると日本側は島津義弘等が急遽水軍を編成して救援軍を派遣した。李舜臣はこれを察知し、明・朝鮮水軍は順天の封鎖を解いて島津水軍を露梁海峡で迎撃した。
この露梁海戦では夜半からの戦闘が長時間続き、急造の島津水軍は苦戦したが混戦の中で李舜臣が戦死し、他に明水軍副将を初めとする明・朝鮮水軍の主たる将が多数戦死し大きな被害を出したため、後退する島津水軍を追撃することは出来なかった。
一方、孤立していた小西行長は明・朝鮮水軍の出撃により封鎖が解けたので海路脱出に成功し無事日本へ帰国することができた。 李舜臣はその死後に忠武と謚(おくりな)された。
韓国ソウルの官庁街である世宗路には、李舜臣の銅像が建てられている。これは軍事政権下の力の象徴として設置されたと言われる。しかし、世宗路の拡張工事のために撤去される予定である。 釜山龍頭山公園にも外寇から国を守るために銅像が建っている。
言説
- 従来、日本軍の補給不足を李舜臣の補給遮断によるものと解釈されることが多いが、全戦役を通じて九州から釜山までの物資や人の流通が決定的な補給不全を起していたことはなく、補給不全を起こしていたのは内陸部の部隊であるので、このことのみで日本軍の補給路が遮断されたと解釈するのは正しくないとする意見も近年提出されている。この意見に拠れば、日本軍の食糧不足の主な原因は緒戦の朝鮮軍が想像以上に貧弱であったため奥地へ急進してしまったこと、和戦の曖昧な侵攻による食料の準備不足、現地が貧しく調達を日本の常識で想定してしまったこと、義兵や流民による輸送路襲撃の激化などが挙げられる。これらは1593年からの日本本土からの補給作戦の開始と主力軍の南部への布陣で解消されており、準備を整えた慶長の役の侵攻作戦では補給の破綻は起きていないとしている。
- 「東郷平八郎が李舜臣を尊敬すると発言した」とする言説についても現在のところ発言根拠は発見されて居らず、李舜臣賛美のための創作である可能性が高い。また、日本海軍が海軍権益拡大(軍艦建造と組織の拡大)のため李舜臣を引き合いに出して朝鮮出兵の敗因として宣伝したり、戦後独立した韓国北朝鮮で抗日のシンボルとして利用されたことにも留意する必要があるとする研究者もいる。
著書
- 『乱中日記――壬辰倭乱の記録』平凡社[東洋文庫]。全3巻。