松井稼頭央
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[[Image:||松井 稼頭央]] |
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守備位置 | 二塁手 |
所属球団 | コロラド・ロッキーズ |
背番号 | 16 |
日本でのキャリア | 1994-2003 |
アメリカでのキャリア | 2004- |
誕生日 | 1975年10月23日 |
身長 | 178 cm |
体重 | 83 kg |
打席 | 両 |
投球 | 右 |
出身校 | PL学園高校 |
年俸 | $8,000,000(2006年) |
出身地 | 大阪府東大阪市 |
前所属球団 | ニューヨーク・メッツ |
MLBデビュー年 | 2004 |
ニックネーム | Kaz、リトル松井 |
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松井 稼頭央(まつい かずお、本名:松井 和夫 英語表記:Kazuo Matsui、1975年10月23日 - )は、コロラド・ロッキーズ所属のプロ野球選手で、ポジションは内野手である(主に遊撃手、二塁手)。大阪府東大阪市出身。血液型はO型。右投げ両打ち。代理人はアーン・テレム。
目次 |
[編集] 日本プロ野球時代
PL学園から1994年、ドラフト3位で西武ライオンズに入団。高校時代は「桑田2世」とも呼ばれた投手であったが、西武は野手として指名(当時、PL学園の監督であった中村順司は西武首脳陣に対して「松井をブルペンに連れて行かないでください」と嘆願していた。これは中村が松井の野手としての才能を見抜いていたから、と言われている)。入団当初の背番号は32、1997年から西武黄金期を支えた遊撃手・石毛宏典の背番号を受け継ぎ7に変更し、応援歌では「ミスターレオ」と呼ばれていた。
入団3年目の1996年に一軍レギュラーに定着して全試合出場、リーグ2位の50盗塁を記録するなど華々しい活躍を見せた。翌1997年には初の打率3割、また62盗塁で盗塁王を獲得する活躍でチームのリーグ優勝に大きく貢献。同年のサンヨーオールスターゲームではファン投票選出され、古田敦也から奪った衝撃的な4盗塁を評価されMVPを獲得。この年から3年連続でパ・リーグ盗塁王を獲得(1998年には千葉ロッテマリーンズの小坂誠との盗塁王争いに関連して、故意のボーク疑惑が発生した)し、一躍パ・リーグのみならず日本を代表する遊撃手となった。
高い身体能力を生かした守備力も非常に高く、ゴールデングラブ賞を4度受賞しているが、細かい動作が若干雑な傾向があり失策は多かった。この欠点は後に移籍したメジャーリーグで露呈することとなる。肩の強さは日本人選手トップレベルで、通常は二塁手が中継に入るライトからの返球を、西武に限っては松井が代わって行っていたことや、三遊間の深いゴロを一塁にノーステップで送球してアウトにする華やかなプレーなどで象徴されていた。
1996年から2003年の退団・渡米まで8年間、通算1193試合連続出場。また97年から2003年の退団まで8年連続で打率3割、また2002年に史上8人目、スイッチヒッターとしては史上初のトリプルスリーを達成し、20世紀センチュリーベストナインにも選出される活躍など、俊足、巧打、長打力、強肩、更には抜群の守備範囲をもつ、いわゆるファイブツールプレーヤーとして大いにその名を轟かせた。
[編集] メジャーリーグ時代
2004年、アメリカメジャーリーグ・ニューヨーク・メッツにFA移籍(背番号は25番)。同じメジャーリーグのニューヨーク・ヤンキースの松井秀喜と区別するため、日本のマスコミでの表記は「松井稼」となっているが、リトル松井と呼ばれることもある。また米国製のスポーツカードには、Kaz Matsui、又はCazzo Matsuiと表記されるものもある('Kazu'は石井一久のイメージが強い)。
2004年4月6日(現地時間)の対アトランタ・ブレーブスの開幕戦でこそ、前年度に21勝をあげたラス・オルティス投手から開幕戦・新人・初打席・初球ホームラン(メジャー初)を記録したものの(メッツのアート・ハウ監督(当時)は「おとぎ話のようだ」とコメント)、その後は高額の年俸を受けながらも多くの怪我と共に打撃・守備ともに日本プロ野球時代からは考えられないくらいの大不振に陥っている。そのため2004年シーズン開幕時のポジションは遊撃手であったが、シーズン途中に松井移籍前まで正遊撃手で二塁にコンバートされていたホゼ・レイエスが本来の位置に戻され、代わりとして二塁手にコンバートされている。しかし成績の低迷はその後も続き、結局その二塁の座も守りきれず、シーズン終盤は控えに甘んじた。地元紙ニューヨークデイリーニュースでは「メッツの最優先課題はマツイを放出するべき」とほぼ毎日のように叩かれ、ホームスタジアムでは観客から盛大なブーイングを浴びた。メッツファンで有名な不動産王ドナルド・トランプからは、「メッツの成績を落とした最大の元凶選手」と名指しで批判され、2005年にはその高年俸に釣り合わない成績と、シーズン前の期待の反動からMLB"ワースト"オールスターに、2006年にはFOXテレビにおいて『年俸と成績が釣り合っていない5人』にそれぞれ選出されている。
しかしながら2005年の開幕戦(対シンシナティ・レッズ)でも初打席でソロホームランを打ち、2年連続開幕戦初打席初本塁打を記録。2006年のメジャー昇格初戦(対サンディエゴ・パドレス)の初打席で日本人初のランニングホームランを打ち、3年連続シーズン初打席初本塁打という記録(メジャー4人目)を達成している。
結局メッツでは見限られ、2006年6月9日にコロラド・ロッキーズへトレード移籍。移籍先のロッキーズの看板選手、トッド・ヘルトンとは1995年のシーズンオフに開かれたハワイ・ウィンタートレーニングのマウイ・スティングレイズで共にプレーしたチームメート。会話こそなかったものの、ヘルトンは松井の守備(ピッチングも含める)に強い印象を受けたと語っている。またロッキーズのヘッド・トレーナー、キース・ダガーも同チームには帯同していたため、全くなじみのないチームではない。
[編集] 西武時代の通算成績(1994-2003)
1159試合 打率.309(4638打数1433安打) 150本塁打 569打点 306盗塁
[編集] 西武時代のタイトル
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- 1回 1998年
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- 3回 1997年~1999年
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- 2回 1999年、2002年
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- 7回 1997年~2003年
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- 4回 1997年、1998年、2002年、2003年
- オールスター出場
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- 7回 1997年~2003年
- 日本シリーズ敢闘賞
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- 1回 1997年
[編集] 西武時代の記録
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- 2000年6月7日大阪近鉄バファローズ戦
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- 1回 2002年
[編集] 国際大会出場歴
- 2004年のアジア予選日本代表
- 松井は日本でリーグ優勝を4度(1994年、1997年、1998年、2002年)経験しているが、西武はいずれの日本シリーズも敗れており日本一経験は一度もない。また、松井のメジャーに移籍により西武の戦力低下が懸念されたが、実際はなんとか中島裕之が穴埋めを果たし、チームは松井がいた時代には成し遂げられなかった日本一まで達成した。
[編集] 背番号
西武ライオンズ在籍時
ニューヨーク・メッツ在籍時
コロラド・ロッキーズ在籍時
- 16(2006年 - )
[編集] 特筆
- 日本で長くに渡り3割を打ち続けたために、技巧派の打者と思われがちだが、意外と三振が多く、徐々に本塁打の数も伸ばし始め長打力を身につけたため、本塁打打者タイプといえる(もともとパワーがあり、背番号がまだ32だったスイッチ転向時の頃も右打席の長打力には定評があった)。
- 登録名の「稼頭央」には、父親の「稼ぎ頭になってほしい」という思いが込められている(「グラウンドの中央に稼ぎ頭がいる」の説も)。しかしアメリカのマスコミからは「頭の中(中央)はお金を稼ぐことだけなのか?」と指摘された。
- 夫人は元タレントの菊池美緒で、2000年1月12日に結婚。(両者のキューピット役は松崎しげる)
[編集] TVCM等
- 大塚製薬 アミノバリュー (共演:仲間由紀恵)
- サントリー デカビタC (共演:深田恭子)
- マスターカード 公式スポークスパーソン
- マスミューチュアル生命 (都営バスのラッピングバスにも登場した)
- 文化放送ライオンズナイター (共演:松坂大輔、西武バスのラッピングバスにも登場した)