松山城 (備中国)
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松山城本丸(平成の復元後) | |
通称 |
高梁城 |
城郭構造 |
連郭式山城 |
天守構造 |
複合式 |
築城主 |
秋葉重信 |
築城年 |
1240年 |
主な改修者 |
三村元親、水谷勝宗 |
主な城主 |
三村氏、水谷氏、板倉氏 |
廃城年 |
1874年(明治7年) |
遺構 |
現存天守・櫓・塀、石垣 |
松山城(まつやまじょう)別名・高梁城。所在・岡山県高梁市内山下。国指定史跡。日本100名城。
目次 |
[編集] 概要
城の形式は山城である。城のある臥牛山は4つの峰からなり、小松山に本丸・二の丸・三の丸が階段状に配され、大松山、天神の丸、前山にも遺構がある。
江戸期の備中松山藩時代は山城で不便なため山麓に御根小屋という御殿を構え、そこで藩主の起居・藩の政務を行った(現在の高梁高校)。
現在は城郭が国の史跡に指定され、現存する天守・二重櫓・土塀の一部が国の重要文化財に指定されている。また、石垣、復興櫓・門・土塀が存する。 建物が現存する城郭の中では日本一の高所(標高430m)にあり、日本三大山城の一つとなっている。
別名・「高梁(たかはし)城」。伊予(愛媛)の松山との混同を避けるために、一般的に「備中松山城」と呼ぶことが多い。
[編集] 沿革
[編集] 鎌倉時代 - 安土桃山時代
- 仁治元年(1240年)秋葉重信が備中有漢郷(現・岡山県高梁市有漢町)の地頭となり大松山に最初の城を築く。
- 元弘年間(1331年頃)高橋宗康が小松山まで城を拡張する。
- 城主は時代と共に上野氏、庄氏、三村氏と変遷する。
- 戦国時代、三村元親の時代には大松山・小松山を範囲とする一大城塞となる(現在も石垣の一部が現存)。
- 天正3年(1575年)備中兵乱。三村元親は毛利氏に離反。織田信長に寝返る。小早川隆景により落城し元親は自害。
- 備中兵乱後、毛利氏の領有となる。
[編集] 江戸時代
- 慶長4年(1600年)関ヶ原の戦いで毛利氏が西軍につき敗れた後、徳川幕府が城番(小堀正次 - 政一 )を置く。この頃、麓に御根小屋が築かれる。
- 元和3年(1617年)池田長幸が入城。6万3千石で立藩。
- 寛永18年(1641年)2代・長常に嗣子なく廃絶。備後福山藩主の水野勝成家臣が城番となる。
- 寛永19年(1642年)水谷勝隆が5万石で入封。
- 天和元年(1681年) - 天和3年(1683年)2代・勝宗により天守閣建造など3年にわたり大修築が行われ現在の姿となる。
- 元禄6年(1693年)3代・勝美に嗣子なく廃絶。赤穂藩主・浅野長矩が城の受取りにあたり家老・大石良雄が城番となる。
- 元禄8年(1695年)安藤重博が6万5千石で入封。
- 正徳元年(1711年)安藤氏転封後、石川総慶が6万石で入封。
- 延享元年(1744年)石川氏転封後、板倉勝澄が5万石で入封し明治時代まで8代続く。
[編集] 明治時代以降
- 明治6年(1873年)廃城令が公布され御根小屋は取り壊された。現在は跡地に岡山県立高梁高校がある。また、山上の建物は忘れ去られ次第に荒廃していった。
- 昭和初期に山上の建物が修復され、昭和16年(1941年)には国宝の指定を受ける。
- 昭和25年(1950年)文化財保護法の制定により重要文化財となる。
- 昭和31年(1956年)11月7日、国の史跡に指定される。
- 昭和35年(1960年)高梁市が管理団体となる。
- 平成6年(1994年)より本丸の復元整備が行われ、本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが復元された。
[編集] 問題点
[編集] 石垣崩落の危険性
大手門跡の後方にそそり立つ巨岩と、その上に載る厩曲輪石垣は圧巻である。しかしながら、巨岩の割れ目に貫入した樹木の成長により、割れ目が次第に大きくなっている。更に巨岩の上に載る石垣の重みで岩のズレを生じている。これらの影響で上部の石垣が変形しつつあり、将来崩落する危険を孕んでいる。
このため、平成11年(1999年)より高梁市教育委員会は京都大学防災研究所と共同で、岩盤斜面にペルー・マチュ・ピチュ遺跡などで地滑りの観測をしているのと同様の不安定岩盤斜面監視システムを設置し、調査・観測している。
[編集] 獣害
臥牛山には野生の猿が生息しており建造物に登り壁や瓦を破損させるなどの被害が出ていた。このため平成の復元整備の際に、主要建造物の周囲に高圧電線の柵を張り巡らせ侵入を防止する対策を施している。また、登城道路脇にはフェンスが張られ、猿と同時に猪が麓に降りて農作物を荒らす被害を防止している。
[編集] 関連事項
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