松平信義
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松平 信義
松平 信義(まつだいら のぶよし、文政7年(1824年) - 慶応2年1月29日(1866年3月15日))は、江戸時代末期の丹波亀山藩主、老中。
亀山藩分家の松平康煕の長男、母は松平信愛の娘。本家松平(形原)信豪の養子となる。名は友三郎、信篤ついで信義。官名・但馬守、伊豆守、紀伊守、豊前守。
桜田門外の変、坂下門外の変など世情不安な時期、信義は先代信豪が井伊直弼の姻戚であった関係から安政の大獄 に協力した経緯があり、水戸浪士らのテロのターゲットとされ、文久元年6月、水戸藩士落合慵之助は信義登営の際に殺害 せんとされている(未遂。落合は捕縛のうえ今治藩預け)。また、生麦事件とその賠償金問題、薩英戦争などの事後処理で イギリスとの交渉にあたっている。 文久2年5月10日攘夷決行の前後には病気と称して途営しないなど、在任末期になると責任回避がめだつようになり、文久3年には辞任する。
[編集] 経歴
- 1824年(文政7年) 生誕
- 1842年(天保13年)従五位下に叙される。
- 1843年(天保14年)2月9日、丹波亀山藩主松平(形原)信豪の隠居に伴って襲封
- 1848年(嘉永年)10月18日(~1858年11月26日)奏者番兼寺社奉行
- 1858年(安政5年) 11月大坂城代に就任。
- 1860年(万延元年)12/28に老中、外国事務取扱。
- 1863年(文久3年) 病気を理由に老中辞任
- 1866年(慶応2年) 隠居、1月29日死去
墓所 光忠寺(亀岡市古世町) 法名 清徳院倹誉俊聳鵞峯
松平 信義(まつだいら のぶのり、寛保2年(1742年) - 享和元年(1801年))は江戸時代の大名。駿河国小島藩第5代藩主。越後国村松藩主・堀直尭の三男。正室は松平昌信の娘。官位は従五位下、丹波守。
1742年生まれ。先代藩主・松平昌信の娘と結婚して婿養子となる。明和8年(1771年)6月27日に昌信が没したため、同年8月29日に跡を継いで藩主となる。寛政12年(1800年)に隠居し、家督を長男の松平信圭に譲って隠居し、1801年に死去した。法号:源隆院。墓所:東京都台東区下谷の英信寺。