松平忠周
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松平 忠周(まつだいら ただちか、又は松平 忠徳(まつだいら ただのり)、万治4年4月19日(1661年5月17日) - 享保13年5月1日(1728年6月8日))は、江戸時代中期の藤井松平家(伊賀守流)当主。はじめ丹波亀山藩主、ついで但馬国出石藩主、更に信濃国上田藩主。幼名は与十郎。諱を忠易、忠栄、忠徳と変え、忠周となる。藤井松平家(伊賀守流)主・松平忠晴の三男。室は、久松松平家松平定経の長女。幕府では側用人、京都所司代、老中を歴任した。
異母兄で先代の藩主・松平忠昭の跡を受けて藩主となる。5代将軍綱吉に近侍し、側用人にまで出世するが、家宣が将軍となると側用人を免ぜられ幕政から遠ざけられる。その後、8代将軍吉宗が登場すると京都所司代を経て老中に起用される。忠周の没後、上田藩は忠周の長男松平忠愛が継いだ。
[編集] 経歴
※日付=旧暦
- 1661年(寛文元年)4月、誕生。生母は側室・木村氏(家臣の娘)。
- 1667年(寛文7年)閏2月、17歳年長の異母兄の世継ぎとなる。
- 1679年(延宝7年)12月28日、従五位下阿波守に叙任。
- 1683年(天和3年)6月29日、家督相続し、遠江国掛川藩(藤井)松平家(伊賀守家)38000石を藩主として継承する。7月3日、伊賀守に遷任。
- 1685年(貞享2年)6月22日、若年寄に就任。前は、詰衆。忠徳を名乗る。7月22日、側用人に転出。忠易を名乗る。
- 1686年(貞享3年)1月21日、武蔵国岩槻に転封。1万石加増(計48000石)。ところが移転費用が足らず、幕府から1万両を借り受ける。しかも、この時の加増、1万石については武州岩槻領内に無く、和泉国の飛び地となった。丹波から武蔵までの移転は難しかったため、父・忠晴の墓は泉州へ移した。
- 1689年(元禄2年)3月22日、側用人御役御免。
- 1691年(元禄4年)、奥詰となる。
- 1697年(元禄10年)2月11日、但馬国出石への転封を言い渡される。同年5月、武州岩槻の後任・小笠原佐渡守へ引継ぎ。やがて先遣の家臣が、出石の前任・小出播磨守からも引継ぎを終えた。家中の移転は7月21日からで、出石入りは8月9日となった。
- 1705年(宝永2年)5月11日、側用人に再任。忠徳を名乗る。12月2日、従四位下に昇叙。伊賀守如元。
- 1706年(宝永3年)1月28日、信濃国上田に転封し、1万石加増(計58000石)。12月15日、侍従兼任。
- 1708年(宝永5年)2月21日、江戸藩邸に綱吉将軍が来訪。
- 1709年(宝永6年)1月17日、側用人御役御免。
- 1717年(享保2年)9月27日、京都所司代に就任。忠周を名乗る。
- 1724年(享保9年)12月15日、老中に就任。
- 1728年(享保13年)5月1日、在職のまま死去。享年68。法名:歓喜院光譽月閑圓心大居士。
吉宗将軍もその死を悼み、大久保佐渡守に銀300枚を持たせ、弔慰に遣わした。人品、文武の両道、共に優れ、和歌への造詣も深かった。
京都所司代の頃には、たびたび公卿から歌会に招かれていた。好感を得られる人柄からか、武家にしては、柔和な人物と思われたのだろう。吉宗将軍は、忠周の頻繁な歌会参加を聞き及んでも、特に咎めることも無かった。その歌会仲間のツテで、伊勢物語の講にも参加。講が終わって、ある公卿が在原業平を羨む発言した。その場の公卿は、賛同する者がほとんどだったというが、忠周一人が座を正し、
「諸卿の言、みな非なり。今もし、不義濫行その如きもの在らば、それがし、苟(いやしく)も東府の目代なり。職に於いて赦さず、速やかに召し捕えて罪を論じ、刑に処さん。」
と諫言した。この一事が、やがて江戸にまで届き、吉宗将軍の聞き及ぶ所となった。吉宗は「余が見る処は、違わざるなり」、と満悦。老中抜擢の端緒であったという。