梶本隆夫
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梶本 隆夫(かじもと たかお、1935年4月8日 - 2006年9月23日)は山梨県甲府市生まれ、岐阜県多治見市出身。プロ野球選手、プロ野球監督、野球解説者。投手だが、内野手・外野手としての出場も記録している。左投左打。愛称は「梶」。あるいは「梶さん」「梶やん」。
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[編集] 来歴・人物
岐阜県立多治見工業高等学校から1954年阪急ブレーブスに入団。高卒ルーキー1年目にして開幕投手に指名され勝利投手。この年、55試合に登板し20勝をあげるも新人王争いは宅和本司(南海ホークス)に敗れる。1956年28勝、1957年24勝と2年連続20勝以上、1960年にも21勝をあげるなどエースとして阪急の「灰色の時代」を支えた。1957年7月23日に南海戦で達成した9連続奪三振は、現在もプロ野球記録。
後に入団する米田哲也と「ヨネカジ時代」を形成。1967年、パームボールを習得し15勝をあげ念願の初優勝に貢献。同年200勝を達成。1973年に現役引退。通算254勝255敗と、200勝以上を記録した投手の中で唯一負け越している点に低迷するチームで投げ続けた苦労が窺える。時には貧弱な打線を支えるべく3番として出場したことがあるほか、1塁手として試合に出場したこともあった。また、1966年にはシーズン15連敗という不名誉な記録を作ってしまう。
1972年4月14日の東映戦では、露崎元弥二塁塁審に公認野球規則8.04に規定された、20秒ルール(無走者の時、投手はボールを受けてから20秒以内に投球しなければ、球審はボールを宣告する。試合の引き延ばしを防ぐための規定)によってボールを宣告された。露崎はストップウオッチで計測しており、文句のつけようがなかった。しかし、日本プロ野球公式戦では、このときの梶本が唯一の適用者であり、梶本一人が貧乏くじを引いた形となっている。8.04の条項は現存するが、空文化している。
1974年 - 1978年、1981年 - 1986年阪急コーチ。1979年 - 1980年阪急監督。1987年 - 1988年は阪急球団調査部長。1989年 - 1995年オリックスコーチ。1998年 - 1999年は中日ドラゴンズ2軍コーチと、指導者としての評価も高い。監督辞任した次の年に同じチームのコーチとなった例はプロ野球史上でも非常にまれである。現場を離れてからはデイリースポーツ野球評論家として活躍した。
ちなみに弟・靖郎も阪急の投手で、通算3勝2敗の成績を残している。
同時代の投手の多くが力投型のフォームで投げたのに対して、長身にもかかわらずスリークオーター気味の、一見おとなしく見えるフォームからの快速球を特徴としていた。梶本の投球フォームが理にかなったものであったことは、現役時代にほとんど故障らしい故障をしなかったこと、引退後マスターズリーグに登板した際に60歳を超えているにもかかわらず140km/h近い球速を記録したことでもわかる。
極めて温厚な人物で知られ、野村克也に言わせれば「ピッチャーらしくない、仏様のような性格」。
反面、非常に芯の強いところもあり、プロ入り直後に「酒ぐらい飲めんと一人前になれんぞ」と言われた先輩達の前でボトル一本分の水割り(グラス十数杯分)をズラリ並べ、すべて飲み干したというエピソードもある。後輩の面倒見が非常によく、コーチ・監督時代を通じて選手たちからも慕われた。また、1軍で実力の出せなかった今井雄太郎の酒好きに目を付け、今井に酒を飲ませて登板させてエースに成長させるなど、球団の躍進にも一役買ったともいえよう。2006年9月23日午前6時26分、呼吸不全のため神戸市内の病院で死去。享年71。
[編集] 獲得タイトル、表彰
[編集] 通算成績
年度 | チーム | 背番号 | 試合 | 完投 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | 投球回 | 安打 | 四球 | 三振 | 防御率 |
1954 | 阪急 | 33 | 55 | 17 | 20 | 12 | - | 309.1 | 266 | 118 | 228 | 2.73 |
1955 | 阪急 | 33 | 49 | 19 | 18 | 14 | - | 273.1 | 232 | 84 | 222 | 2.86 |
1956 | 阪急 | 33 | 68 | 20 | 28 | 17 | - | 364.1 | 284 | 118 | 327 | 2.24 |
1957 | 阪急 | 33 | 53 | 26 | 24 | 16 | - | 337.1 | 259 | 92 | 301 | 1.92 |
1958 | 阪急 | 33 | 44 | 15 | 16 | 18 | - | 265 | 232 | 79 | 186 | 2.99 |
1959 | 阪急 | 33 | 39 | 5 | 11 | 17 | - | 199.1 | 198 | 58 | 136 | 3.24 |
1960 | 阪急 | 33 | 48 | 18 | 21 | 18 | - | 297.2 | 266 | 82 | 171 | 2.54 |
1961 | 阪急 | 33 | 54 | 17 | 17 | 23 | - | 269.2 | 261 | 56 | 141 | 2.80 |
1962 | 阪急 | 33 | 50 | 12 | 14 | 15 | - | 235.2 | 244 | 59 | 154 | 3.28 |
1963 | 阪急 | 33 | 46 | 7 | 9 | 17 | - | 180.1 | 204 | 57 | 107 | 4.33 |
1964 | 阪急 | 33 | 53 | 6 | 9 | 13 | - | 231.2 | 237 | 61 | 142 | 3.34 |
1965 | 阪急 | 33 | 51 | 2 | 5 | 11 | - | 177.1 | 183 | 50 | 137 | 3.61 |
1966 | 阪急 | 33 | 39 | 3 | 2 | 15 | - | 141.2 | 120 | 47 | 112 | 3.68 |
1967 | 阪急 | 33 | 37 | 9 | 15 | 9 | - | 188.1 | 167 | 70 | 136 | 2.44 |
1968 | 阪急 | 33 | 45 | 7 | 12 | 8 | - | 221.1 | 207 | 63 | 175 | 2.97 |
1969 | 阪急 | 33 | 40 | 9 | 18 | 10 | - | 187.2 | 178 | 39 | 93 | 2.97 |
1970 | 阪急 | 33 | 29 | 4 | 4 | 9 | - | 103.1 | 116 | 35 | 56 | 4.81 |
1971 | 阪急 | 33 | 33 | 4 | 6 | 8 | - | 136 | 134 | 43 | 74 | 3.44 |
1972 | 阪急 | 33 | 17 | 2 | 2 | 5 | - | 69 | 66 | 28 | 35 | 3.65 |
1973 | 阪急 | 33 | 17 | 0 | 3 | 0 | - | 19.2 | 25 | 5 | 12 | 6.30 |
通算 | 867 | 202 | 254 | 255 | - | 4208 | 3879 | 1244 | 2945 | 2.98 |
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム本塁打 | チーム打率 | チーム防御率 | 年齢 | 球団 |
1979年 | 昭和54年 | 2位 | 130 | 75 | 44 | 11 | .630 | 2位 1位 |
193 | .281 | 3.84 | 44歳 | 阪急 |
1980年 | 昭和55年 | 5位 | 130 | 58 | 67 | 5 | .464 | 4位 5位 |
204 | .262 | 5.08 | 45歳 |
- 監督通算成績 260試合 133勝111敗16分 勝率.545
[編集] 関連項目
- ※カッコ内は監督在任期間。